学芸員コラム
左)「カフェの恋人たち、イタリー広場」1932年頃/Couple d'amoureux dans un petit café parisien, Place d'Italie,v.1932 g.s.p.
右)「管理人」1946年/Concierge,1946 g.s.p.
ブラッサイは若かりし頃、画家を志してハンガリーとドイツで美術を学んでいました。その後、語学が堪能だったため、1924年にジャーナリストとしてパリに渡り、しばらくの間、ハンガリーとドイツの特派員記者として記事を書きながら生計をたてていました。アンドレ・ケルテスの手ほどきで写真を始めたのがちょうどこの頃のことです。しかし、異邦人であるブラッサイにとって、いきなりパリの表舞台で活躍することは容易なことではありません。先人にはアジェを筆頭とする何人もの写真家がその名を轟かせていたのです。そんな彼を受け入れてくれたのが夜のパリでした。時はヨーロッパでカフェ文化が流行していた時代。カフェは物書きやアーティストなど文化人らが集う場所でもありました。ブラッサイも毎晩のようにカフェに通っては、そこで芸術論に花を咲かせ、顔なじみとなった人々の写真を撮影させてもらうようになりました。そこで出会う人々は、いわゆる裏社会に生きるアングラ世界の人々でした。人目を気にせず接吻をする「カフェの恋人たち」や看板娼婦としていつも決まった席に座っていたという「宝石の女」・・・。ブラッサイは、そんな猥雑でありながらも人情味あふれる1930年代初頭のパリの人間模様を描き出し、1932年に発表した写真集「夜のパリ」で一躍、脚光を浴びるようになります。この作品で彼を気に入り、大抜擢したのがピカソです。ピカソは当時のシュールレアリストたちが発表の場としていた「ミノトール」という雑誌をブラッサイに紹介し、彼にメジャーデビューのチャンスを与えました。この当時のブラッサイの作品は、丸めた切符や水晶などを芸術的に撮ったものです。その後、ブラッサイは、アメリカの「ハーパース・バザー」誌の依頼を受けて、表舞台である昼のパリや旅紀行などグラビアを飾る写真も撮るようになりました。しかし、その一方で30年間ひたすらこだわり、通い続けていたのが後年に発表された「落書き」に見せる街の落書きです。 匿名性がありながらも、集合体となったときにひとつのテーマが成り立つ落書きの面白さ。ブラッサイは、そこに愛や死のイメージを感じ取り、その壁自体の風感を撮り続けていったのです。そんな彼にとって、「夜のパリ」で始まった写真家としての歴史は「落書き」をもって集大成を飾っていたのかもしれません。表舞台で活躍しつつもアングラ的な街の観察者であり続けたブラッサイ。もしかすると、そこに彼の異邦人としての“眼”というものが深く関係していたので しょうか。本展では代表作「夜のパリ」「落書き」をはじめ、実験的な「ミノトール」誌での仕事や、ハーパース・バザー誌で発表された「昼のパリ」など193点の写真 作品に加え、ベルリン時代とパリ時代の貴重な素描8点、彫塑作品33点の未発表作品を含む全234点を展示。20世紀の巨匠、ブラッサイの全貌に迫ります。
左)「自写像」1930-1932年頃 Autoportrait, v.1930 - 1932g.s.p.
右)「落書き」 1935-1950年 Graffiti, v. 1935 - 1950 g.s.p.
左) 霧の中のネー元帥像/1932年頃 中) バー[ ドゥ・ラ・リュンヌ ] の「宝石の女」/1932年
右)「腰掛ける女」1933年 Femme assise, 1933 Ink drawing on paper
※作品は全て国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術文化センター、国立現代美術館/産業創造センター蔵