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東京都写真美術館では新規重点収集作家である畠山直哉の個展を開催いたします。作家の出身地である岩手県陸前高田市は、今回の東日本大震災による津波で大きく破壊されました。畠山は現在、震災後の郷里の写真も含めた構成で、展示の準備をすすめています。ここでは、展覧会カタログへの執筆を依頼するために、畠山が小説家のフィリップ・フォレスト氏に書いた1通の手紙をご紹介します。


陸前高田 2011年4月5日
テリル#02607  2009

「ナチュラル・ストーリーズ」
(P・Fへの手紙より抜粋)
畠山直哉

現在まで、僕は主に風景写真を撮ってきましたけれど、長い間の実践を通じて学んだことはといえば「上手に風景を撮る」などという技法的なことではなく、むしろ僕の風景への関心というものが、写真を撮ることによって生じていたものであったということでした。この逆説に気がついている人は、実は多いはずです。

風景は、そこに実体として存在していたものではなく、僕たちが詩を詠んだり、写真を撮ったりすることによって初めて、僕たちの眼前に価値ある姿として現れてくるものだったのです。それが美しく心和む姿であれ、冷酷でおぞましい姿であれ、目の前の自然が風景として現れるとき、自然は僕たちによって意味を付与され、価値付けをされているものだと言えます。

風景を現出させるために自然に働きかけるのは、いつも僕たち人間です。その働きかけは常に一方的であり、逆に自然が人間に働きかけ、風景を現出させるということは、決してあり得ません。なぜなら自然とはその定義上、人間の原理を超えて現象しているもののことなのですから、人間のことなど一切お構いなしなのです。この自然の持つ、人間に対する無関心さは徹底しており、その冷酷な面については、例えば僕たちが人の死に出会う際に、よく実感されます。

人の死といった、あまりにも冷酷な、自然の人間に対する無関心さを思うとき、僕たちは自らの人生にも思いを馳せます。自らが生まれ、今こうしており、やがてあの人と同じように死んでゆくだろう。その現象を肉体=自然と呼ぶなら、その自然は、人間としての僕たちに対しては沈黙を通し、何も語りません。この深い沈黙に接すると、僕たちの内には「生まれてきたこと、生きていること、死んでゆくことに理由はない」といった、やるせない感慨も生じてくるでしょう。

でも僕たちはいつも、死を畏れ、死に対して抵抗を図り、できる限り生きようとします。自分の人生に意味を与え、自分の人生の価値を高めようとします。こういった欲求のどこからどこまでが生理的、生命的なもので、どこからどこまでが人間的、文化的なものなのかを知るのは難しいですが、いずれにしろこの欲求がなければ、僕たちの生存はたちまち叶わないものとなるでしょう。

自然の人間に対する無関心さに抗うために、そして今日を生存してゆくために、自然に対して、人間の側から一方的にであっても、意味を産出し付与する行為が、僕たちには必要になります。それを物語行為と呼んで、どこが間違っているでしょうか? 風景を生み出すことと同じように、自然との間に物語を生み出すことが、僕たちには必要なのです。

とは言っても、近代以降の科学的世界観の蔓延によって、自然との間に、神話や宗教のスタイルを取った物語を生み出すことには、無理が生じるようになりました。山を地質学的に理解し、月を天文学と物理学によって理解し、花の色彩や造形を昆虫との関係から理解してしまった僕たちには、大昔からの、たとえば「誰がお日様を作ったか」といったようなスタイルによる、神話的、宗教的な物語を繰り返すことは、もうできません。

神話や宗教のスタイルで物語を繰り返すことはもうできない。この認識は、近代の人間に深い寂しさと苦悩をもたらしたでしょうが、しかしその寂しさと苦悩ゆえに、近代の芸術や文学は、人類がいまだたどり着くことのなかった世界の深淵にまで、どんどん降りてゆくことができたのだろうと思います。その長い歩みの総体を、あなたの国では「歴史(histoire)」という、「物語」と同じ言葉で呼んでいますね。

果たして僕たちは、世界の底にまでたどり着いたのでしょうか?それとも、まだまだ深いところまで、これからも降りてゆかなくてはならないのでしょうか?それとも、すべてを諦めて、昔いた場所へと引き返すべきなのでしょうか?いずれにしろ僕たちは、この真っ暗な世界で、言葉や写真を灯火のようにして、次の一歩を踏み出さなければなりません。その一歩を踏み出す行為のみが、生存を意味するということを、僕たちは誰もが心の深いところで知っているからです。

でも、次の一歩をどこに踏み出せばよいというのでしょう?右か左か、前か後ろか。いずれにしろそれは僕たちが決めることです。その一歩を踏み出すためには、たいへんな力が必要でしょうが、その力は、僕たち一人ひとりがあらかじめ抱いている「物語」から、きっと授けられるはずです。そして、僕たちがついに踏み出すとき、その一歩と「自然」との出会いにおいて、別の新しい「物語=歴史」が、そこにはきっと現れるはずです。


シエル・トンべ#04414 2007

今度の展覧会では、岩石や鉱物を扱ったものが多く出品されるでしょうから、なんとなく自然史博物館(ナチュラル・ヒストリー・ミュージアム)の展示物を連想させるような内容になりそうな気がしています。でも、もし歴史と物語がもともと同じ言葉であるというのなら「ナチュラル・ヒストリー」の「ヒストリー」は「ストーリー」でもあるわけで、いっそこの際、複数形で「ストーリーズ」と書き換えてみてはどうかと思っています。「自然についての物語」あるいは「自然な物語」といった字義通りの意味の向こうに「自然史」が連想されればと思っているのです。


ア・バードブラスト#00130 2006

沈黙する自然に対して呼びかけても、返ってくるのはこだまになった自分の声だけかもしれません。でもこのこだまを集めて、僕なりの物語として編むことが、今は必要な気がしているのです。
(2011年5月)