本日は開館しております(10:00-20:00)

作者インタビュー

ある日突然、自由が奪われる。
クーデルカの写真が捉えた、まぎれもないプラハの現実。


1968年8月、チェコスロヴァキア(現在のチェコ)の自由化政策「プラハの春」が、共産主義政権に抑圧されるという事件が起きました。いわゆる「チェコ事件」です。その一部始終を撮ったのが、伝説の写真家 ジョセフ・クーデルカでした。プラハ市民の抵抗とその結末、そして40年以上たった今も、暗い影を落とす現実。展覧会担当学芸員がパリのクーデルカ氏を訪ね、お話をうかがいました。


チェコスロヴァキア・ラジオ局のあるヴィノフラツカー大通り

2010年秋、展覧会直前打ち合せのためパリへ赴いた。3年前からヨーロッパへ行く度に調整していたが、毎回、クーデルカは取材に出ていて会うことはできなかった。
パリ・フォトの最中なら会えると連絡が来たのは、もう秋になってからのことだった。携帯もPCも持たないクーデルカと連絡をとるのは容易なことではない。つい数年前まで、代表作「ジプシー」さながら各地を転々として暮らしていたのだ。現在は、パリとプラハを拠点に世界中を飛び回っている。この期を逃すものかと急ぎパリへ渡った。

ミーティングの日、パリ・フォト会場は大混雑だった。19世紀の古写真から現代美術まで扱うこのイベントの人気は高く、世界中から写真ファンや関係者が訪れる。別室で待ち合わせるのかと思っていたら、会場にふらりと本人が現れた。一瞬、緊張で会場の空気が止まった次の瞬間、クーデルカは写真ファンに取り囲まれてしまった。が、飛びぬけて背が高い彼は笑顔のまま何ら動ぜず、皆と話したり、サインをしたりしながら、人垣の向こうにいる私を見つけて、目で合図をした。「君だね、君。会いたかったよ」と、とびきりの笑顔で素早く近づくと、大きな肩ですごい人並みを難なくかき分け、別室
へエスコートしてくれた。

打ち合せ中、ジョセフはご機嫌だった。2008年に「プラハ1968」を企画し、同書を出版しているアパチャーの編集長メリッサ・ハリスも同席し、これまで巡回してきたニューヨークやプラハの様子を聞かせてくれた。「当時のプラハみたいにね、展示室の入口に街中のグラフィック・サインやポスターを貼りまくったんだ。東京ではどう? 同じようにできるかな? 雰囲気作りだからね、君が好きに貼っていいんだよ。僕も貼ろうかな」等と展覧会の具体的なプランも提案し合った。



血のついた『スヴォボドネー・スロヴォ』紙を手にした新聞売り

打ち合せ後、インタヴューを行った。「僕は航空エンジニアだったから写真は独学でね、プラハの中央図書館によく通ったよ。スイスのアート・グラフィック誌『グラフィス』なんてよく見たな。『ライフ』や『パリマッチ』は見なかったね。僕はジャーナリストじゃなかったし、当時のプラハでは見られなかったからね」「今は『ジプシー』シリーズの新編集に取り組んでるんだ。100点以上の写真集になるから、なかなか大変な作業でね。写真を選んで、シークエンスとか見開き写真を決めたりして。来年には出版だ。」「最新シリーズは8年がかりで取材した採石場のものなんだよ。ほら、日本人にもいたね・・・えーと、そうそう、畠山かな?彼のものとはちょっと違うけど」と、饒舌に語る彼が沈黙してしまったのは、話が「プラハ1968」当時の内容になった時だった。



左)プラハに押し寄せるワルシャワ条約機構軍の戦車とプラハ市民
右)2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場-8月22日、23日

1968年8月21日、運命の日、クーデルカは「人生の中で起こるべき事が全て起きてしまったように感じた」という。当時、ようやく写真家として認められ始め、プラハの個展で初めて「ジプシー」を展示して好評を得た。そしてルーマニアへも足を伸ばしてロマを取材し、揚々とプラハへ帰った。その翌日、街は戦車で埋め尽くされ、運命が大きく転換していく。市民一丸となった1 週間の激しい抵抗もむなしく、言論や表現、行動の自由が奪われてしまったのだ。この1 週間に何が起きたのかを記録した貴重な写真を西側へ持ち出し、発表することができたからこそ、「伝説の写真家ジョセフ・クーデルカ」が存在するのだが、彼はこの当時のことを語りたがらない。「すでに隅々までチェックしたインタヴュー記事があるから、それを読んで。同じ質問には二度と答えたくない」とかたくなに口を閉ざす。冷戦下で「プラハの春」を潰され、共産主義政権の中で統制された生活を強いられた当時の状況は、私達の想像をはるかに超えたものだったろう。1969年にマグナムを通じてこのルポルタージュが世界に配信された時、彼と家族の身の安全のために写真家の名は伏せられたままだった。実際、 1984年にクーデルカが名乗りを上げたのは、彼の父が逝去した後のことだ。



左)フロウビェチーン方面のプラハ工場の裏側
右)ソコロフスカー通り

プラハ侵攻と同じ頃、東京では学生達が権力に立ち向かっていた。そしてその時、解決できなかった問題と政治が未だに日本を苦しめている。内容がこのことに及んだ時、彼は重い口を開いた。「この写真はもう40年以上前のものだけど、だからこそ出てくる意味があるんだ。この記録は昔のプラハのことじゃなくて、いまも侵略され圧政に苦しんでいる人々に関することなんだよ」。市民一丸となってあらゆる「言葉」と知恵を使い戦車に立ち向かったこの貴重な記録は、現代の日本においても、有効な示唆を与えてくれる。クーデルカは「僕は言葉より写真の方が饒舌だから、写真を選んだんだ」と力強くつぶやいた。

(東京都写真美術館 学芸員 丹羽晴美)


写真は全て
Josef Koudelka/Magnum Photos, from the book Invasion: 68 Prague
(Aperture, September 2008)