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左)ジェイムズ・ロバートソン、フェリーチェ・ベアト スルタンアフメト・モスク
1853-1857年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵
右)フェリーチェ・ベアト 長弓を持つ侍
1863年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵


フェリーチェ・ベアトの東洋

1832年にイタリアで生まれ、トルコで写真技術を学び、激動するアジア諸国を撮り続けたフェリーチェ・ベアト。日本では幕末期をとらえた作品で知られる 彼は、戦争、建築、風俗、風景、肖像など幅広い分野で写真史に名を刻んでいます。本展は、その全キャリアに迫るレトロスペクティブでJ・ポール・ゲティ美 術館(ロサンゼルス)の国際巡回展です。日本では、当館コレクションを含む145点の作品を通じて、初めてその生涯を概観します。

フェリーチェ・ベアト 愛宕山から見た江戸のパノラマ
フェリーチェ・ベアト 愛宕山から見た江戸のパノラマ 1863-64年 鶏卵紙 東京都写真美術館蔵

■展示構成
出品点数:約145点
初期作品:1855年-57年頃
インド:1858年-1860年
中国:1860年
日本:1863年-1884年
朝鮮:1871年
ビルマ:1887年-1905年

19世紀後半に中東から東南アジアを駆け抜けた写真師、フェリーチェ・ベアト(1832~1909)。彼はインド、中国、日本、朝鮮、ビルマという19世紀後半に開国した国々のイメージを西欧世界に伝えた主要な写真師の一人です。また、1855~1856年のクリミア戦争、1858~1859年におけるインド大反乱(セポイの乱)、1860年の第二次アヘン戦争、1864年の下関戦争、1871年の辛未洋擾など、東洋における国際紛争を記録した戦争写真のパイオニアでもあります。彼によって初めて戦場の死体が撮影され、戦場のリアリティが提供されました。さらにパノラマ写真を含むランドスケープや建築、人々の肖像など多様な写真作品を欧米に提供したのです。


フェリーチェ・ベアト画像
左)フェリーチェ・ベアト 第93高地連隊と第4パンジャブ連隊による2千人の反乱兵虐殺後のシカンダルバー宮殿の内部。1857年11月のサー・コリン・キャンベルによる最初の攻撃 1858年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵
中)フェリーチェ・ベアト フサイナーバード・イマームバラ宮殿とモハメッド・アリ・カーンの墓。1858年3月のサー・コリン・キャンベルによる2回目の攻撃[ラクナウ] 1858年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵
右)フェリーチェ・ベアト 最初に公式文書を運んできた朝鮮のジャンク 1871年5月30日 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵

ベアトと写真の関わりは、1855年に義理の兄弟となったジェームズ・ロバートソンのもと、コンスタンティノープル(現トルコ)で始まったと考えられています。ロバートソンはコンスタンティノープルで最初期の商業写真スタジオを開いた人物で、2人は1600年代に建てられたスルタンアフメト・モスクやイスラム時代の建築物に焦点をあてて写真を制作しました。この時、ベアトはロバートソンから、正確で綺麗なイメージを与えてくれる鶏卵ガラスネガ方式の技法を習得。そして1856年、クリミア戦争の戦地でロバートソンの助手を務め、その経験が彼の将来を決定づけたのです。
1857年、インドがイギリスの植民地支配に抵抗したインド大反乱が勃発しました。1858年2月にインドに到着したベアトは、クリミア戦争での経験から軍将校と関係を築き、反乱の拠点を撮影、写真を編集してキャプション(写真に添える説明文)も執筆しました。この時、彼は劇的な効果を高めるため、反乱軍兵士の人骨を追加して撮影しています(左上の写真)。
1860年、中国に渡ったベアトは、第二次アヘン戦争の最終的な戦闘において、フランスとイギリスの軍隊に同行します。8ヶ月にわたる行軍において、彼は鶏卵ガラスネガ方式に必要な化学薬品や壊れやすい多数のガラス板などの機材を運び、戦場の過酷な条件下で陰惨なシーンを含む軍事行動の進捗状況を記録しました。


フェリーチェ・ベアト画像
左)フェリーチェ・ベアト 朝鮮軍将軍旗「帥字旗」 1871年6月 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵
中)フェリーチェ・ベアト ザガイン寺院内の49体の釈迦像 1887-1895年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵
右)フェリーチェ・ベアト カチン族の女性 1887-1893年 鶏卵紙 J・ポール・ゲティ美術館蔵

その後、ベアトは日本を訪れ、1863年から1884年まで20年以上にわたって滞在しました。日本は彼の生涯で最も長く滞在した国であり、もっとも多作 な時期を過ごしました。彼は日本が江戸幕府から明治政府へ移りゆく激動の時代を目撃し、写真として記録したのです。また、彼は日本滞在中に、感度が高く露 光時間を短縮できるコロディオン湿板方式へと写真方式を転換しました。この技術による手彩色写真やアルバムが西洋へ発信されると一躍人気を呼び、ベアトを 成功へと導いたのです。
日本滞在中の1871年、ベアトは朝鮮でも撮影を行っています。この時代の朝鮮は諸外国との国交がなく、朝鮮における最初の写真制作がベアトの手によるも のでした。辛未洋擾(アメリカの武装商船を巡る事件を発端とする米韓戦争)を撮影するため米軍に雇われた彼は、米軍が戦争の火蓋を切るや軍事作戦を記録 し、47点の写真を残します。史実として、この戦争は米軍の大敗に終わります。しかし、彼は米軍から雇われていたため、あたかも米軍が勝利したかのように 撮影し、記録を制作したのです(左上の写真)。
1877年、ベアトは写真館のネガから顧客までをライムント・フォン・スティルフリードに譲り渡し、不動産等の投機ビジネスに転身しました。しかし、1884年に大きな損失を受け、彼は20年余りを過ごした日本をあとにしました。
ベアトが写真家として返り咲くのは、3年後の1887年のことです。彼はまず第三次英緬戦争を記録するためスーダンへ行き、イギリス統治下のビルマに滞 在。この地が西洋人の観光地となると、ビルマ北部の至る所で撮影を行い、土産物店で作品を販売し、写真家としての地位を確立したのです。1905年までビ ルマで制作した景観写真や建築写真、肖像写真の数々は、19世紀末のこの地における生命の輝きを見事に写し出しています。
1909年1月9日、 フェリーチェ・ベアトは、波瀾万丈の放浪生活の末、フィレンツェで永眠しました。イタリアのヴェネツィアで生まれ、フィレンツェで没するまで、アジア全域 を駆け巡った漂泊の写真師。繊細さと剛胆さを併せ持つベアトの気質と才能は、朽ちることのない作品として、
写真の歴史に深く刻み込まれています。

※図版は全てCourtesy of the J. Paul Getty Museum, Los Angeles,Partial gift from the Wilson Centre for Photography.

※この展覧会はロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館が企画しています。
This exhibition has been organized by the J. Paul Getty Museum, Los Angeles.