3F 展示室
写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて
2022.3.2(水)—5.8(日)
- 開催期間:2022年3月2日(水)~5月8日(日)
- 休館日:毎週月曜日(ただし3/21、5/2は開館)、3/22
- 料金:一般 700(560)円/学生 560(440)円/中高生・65歳以上 350(280)円 ※( )は当館の映画鑑賞券ご提示者、各種カード会員割引料金。各種割引の詳細はご利用案内をご参照ください。各種割引の併用はできません。 ※小学生以下、都内在住・在学の中学生および障害者手帳をお持ちの方とその介護者(2名まで)、年間パスポートご提示者は無料。 ※18歳以下の方はウェルカムユース期間中(3/19‐4/3)入場無料。
本展はオンラインによる日時指定予約を推奨いたします。
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【写真技法からみる「写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて」】
展覧会構成
第一章|はこだての歩み
写真発祥地をとらえた初期写真を核に幕末・明治の姿を再構築する連続展の第二弾として「写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて」を開催します。
写真発祥の地は、写真との関わりが永く、膨大な写真が堆積しています。本シリーズ展では特に初期写真に注目し、写真と資料から、近代へと推移する日本の輪郭を再構築する試みです。
約150年前に江戸時代は終焉し、日本は近代国家へ歩みを進めました。北端の港湾都市であった箱館は、江戸時代後期に幕府の拠点が置かれ、蝦夷地経営や箱館戦争、開港といった歴史事象のなかで重要な役割を担うこととなります。1869年に蝦夷地は北海道と命名され、箱館も函館に改称されました。幕末期には、ロシア人より伝えられた技術を起点に写真文化が華開きます。最初の写真家である木津幸吉をはじめ、田本研造、武林盛一、井田侾吉などの在住する写真家と、野口源之助やライムント・フォン・シュティルフリートら来訪する写真家たちは函館の人々や街、文化を撮影しました。田本研造は、その技術を池田種之助ら弟子たちに伝え、弟子たちは函館に限らず北海道各地にその跡を残し、現代にその姿を伝えています。
本展は、幕末から明治の激動の地「はこだて(箱館・函館)」を、新たな切り口で捉え直す試みといえるでしょう。
【展覧会図録】
B5/144頁/2,530円
執筆:大塚和義(国立民族学博物館名誉教授)、高橋則英(日本大学藝術学部写真学科特任教授)、大下智一(北海道立近代美術館学芸員)、奥野進(市立函館博物館学芸員)、三井圭司(東京都歴史文化財団)
本図録に掲載している論考の英語テキストはこちらからダウンロードいただけます。
【展覧会図録】
B5/144頁/2,530円
執筆:大塚和義(国立民族学博物館名誉教授)、高橋則英(日本大学藝術学部写真学科特任教授)、大下智一(北海道立近代美術館学芸員)、奥野進(市立函館博物館学芸員)、三井圭司(東京都歴史文化財団)
本図録に掲載している論考の英語テキストはこちらからダウンロードいただけます。
【写真技法からみる「写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて」】
展覧会構成
第一章|はこだての歩み
今から約3万年前頃、現在の北海道に人類の定住が始まったと考えられています。やがて狩猟や漁労だけでなく、商品性のある当地の資源、ことに毛皮や海産物による交易が盛んに行われるようになり、13世紀前後にアイヌ文化の原型が形成されます。17-18世紀には、本州から交易品を求めて、和人商人がこの地を訪れるようになり、和人の定住が本格化しました。
「はこだて」は、江戸時代には松前藩のもとで松前・江差とともに主要港として繁栄し、1802年には蝦夷地奉行(後の箱館奉行)が置かれ、幕府の直接統治の中心拠点を担います。幕末から明治になると開港により、ロシアを中心とする各国の領事館が置かれ、欧米文化の影響を強く受けるようになります。
戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争を経て、1869年に蝦夷地は「北海道」、箱館も「函館」へ改称*され、1871年、札幌に開拓使の本庁舎が建てられると、北海道行政の中心は札幌へと移ります。しかし、その後も函館は北の港湾都市として、また北洋漁業の基地として、発展しました。 本章では、1793年の絵巻や箱館戦争の錦絵、1882年の多色刷木版による鳥観図など、初期写真だけでなく、多くの資料から「はこだて」をひも解きます。
月岡芳年《諸国武者八景 函館港》 明治4(1871)年 函館市中央図書館蔵
田本研造?《フランス軍士官と旧幕府脱走軍士官》 明治元(1868)年~明治2(1869)年 函館市中央図書館蔵
第二章|はこだてを捉えた写真家と幕末・明治の写真技術
「はこだて」は、江戸時代には松前藩のもとで松前・江差とともに主要港として繁栄し、1802年には蝦夷地奉行(後の箱館奉行)が置かれ、幕府の直接統治の中心拠点を担います。幕末から明治になると開港により、ロシアを中心とする各国の領事館が置かれ、欧米文化の影響を強く受けるようになります。
戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争を経て、1869年に蝦夷地は「北海道」、箱館も「函館」へ改称*され、1871年、札幌に開拓使の本庁舎が建てられると、北海道行政の中心は札幌へと移ります。しかし、その後も函館は北の港湾都市として、また北洋漁業の基地として、発展しました。 本章では、1793年の絵巻や箱館戦争の錦絵、1882年の多色刷木版による鳥観図など、初期写真だけでなく、多くの資料から「はこだて」をひも解きます。
浅野文輝《函館真景》 明治15(1882)年 多色刷木版 函館市中央図書館蔵
月岡芳年《諸国武者八景 函館港》 明治4(1871)年 函館市中央図書館蔵
田本研造?《フランス軍士官と旧幕府脱走軍士官》 明治元(1868)年~明治2(1869)年 函館市中央図書館蔵
第二章|はこだてを捉えた写真家と幕末・明治の写真技術
箱館(函館)は日本における写真発祥の地のひとつであり、箱館(近世)から函館(近代)へと移りゆく中で日本写真史の礎を築く場でした
本章はロシア人から写真技術を習得した田本研造、開拓使写真御用掛に任命された武林盛一などこの地で写真館を開設した人々と、公務でこの地を訪れて撮影を行った野口源之助や、開拓使の依頼によってこの地を訪れたライムント・フォン・シュティルフリートなど、函館に関わる写真家たちを紹介します。
また、幕末・明治期の写真技術を、カメラや三脚、原板等の撮影機材などの史料を交え、ネガ原板とプリント制作の両面から、現代とは大きく異なる原初的な写真技術を紹介します。
本章では、人や技術など「はこだて」の写真を制作の側面から多角的に解説します。
四切判野外用組立箱 20世紀前半 日本大学藝術学部蔵本章はロシア人から写真技術を習得した田本研造、開拓使写真御用掛に任命された武林盛一などこの地で写真館を開設した人々と、公務でこの地を訪れて撮影を行った野口源之助や、開拓使の依頼によってこの地を訪れたライムント・フォン・シュティルフリートなど、函館に関わる写真家たちを紹介します。
また、幕末・明治期の写真技術を、カメラや三脚、原板等の撮影機材などの史料を交え、ネガ原板とプリント制作の両面から、現代とは大きく異なる原初的な写真技術を紹介します。
本章では、人や技術など「はこだて」の写真を制作の側面から多角的に解説します。
第三章|はこだて鳥瞰
1897年に函館に函館要塞置かれ、軍事機密厳守のため、函館山への立ち入りは禁止され、市中での写真撮影でも許可が必要となりました。本章は、これ以前に制作された写真によって明治期の函館を俯瞰します。
パノラマ写真では、函館山から街を見下ろした構図の写真(函館港全景)群と函館山に向かった写真(函館市街全景)群を比較するとことで、度重なる大火や港湾工事によって変容する街並みを確認することができます。これらパノラマに点景として写る建築物や山々は、シュティルフリートらによってクローズアップした視点から撮影されており、現在は失われた明治時代の函館の姿を知ることができます。
近代化のなかで、変わりゆく街並みやそこに生きた人々など、ミクロとマクロの両面から捉えた写真を集めました。本章では、第二章で紹介した写真家たちの作品を中心に「はこだて」の姿を初期写真によって鳥瞰します。
パノラマ写真では、函館山から街を見下ろした構図の写真(函館港全景)群と函館山に向かった写真(函館市街全景)群を比較するとことで、度重なる大火や港湾工事によって変容する街並みを確認することができます。これらパノラマに点景として写る建築物や山々は、シュティルフリートらによってクローズアップした視点から撮影されており、現在は失われた明治時代の函館の姿を知ることができます。
近代化のなかで、変わりゆく街並みやそこに生きた人々など、ミクロとマクロの両面から捉えた写真を集めました。本章では、第二章で紹介した写真家たちの作品を中心に「はこだて」の姿を初期写真によって鳥瞰します。
田本研造《(函館のパノラマ)》 明治22(1889)年 東京都写真美術館蔵
井田侾吉《花ゴザを編むアイヌ(女性)》 明治10(1877)年頃 鶏卵紙 函館市中央図書館蔵
監 修:大塚和義 (国立民族学博物館名誉教授)、高橋則英 (日本大学芸術学部写真学科教授)
※事業は諸般の事情により変更することがございます。 あらかじめご了承ください。
主 催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都写真美術館
後 援:J-WAVE 81.3FM