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穂苅三寿雄 ≪雲晴れる槍ヶ岳、槍ヶ岳肩より≫ 1924(大正13)年-1941(昭和16)年

冠松次郎(1883-1970)と穂苅三寿雄(1891-1966)はともに、日本における山岳写真のパイオニアと言われる作家たち。明治大正の時代、およそ100年前から活躍した彼らの写真には、今も変わらない厳しい山の姿を見る事ができるが、また一方で、現代では見ることのできない失われた自然も多く写されている。まだ日本の山が「秘境」と言われた時代に活躍した先駆者たる冠と穂苅は、どのような作家であったのか? 『山と溪谷』元編集長の神長幹雄氏と、展覧会を企画した関次和子学芸員に話をうかがった。

まずは、それぞれの作家の特徴についてお教えいただけますか。例えば、穂苅三寿雄の焼岳噴火の写真は迫力があって、誰にもその凄さがすぐに分かります。

神長「自然をあるがままの美しさで表現できる作家でした。穂苅さんが撮った大正池の写真も素晴らしい。今では、写真に写っている枯木はほとんどなくなってしまって、全く違う風景になってしまいました」

穂苅三寿雄 ≪冬の焼岳と大正池≫ 1924(大正13)年-1941(昭和16)年

関次「穂苅さんの作品はどれも、山を生活の拠点とし、自然とともに生きた人であったからこそ、撮ることができた写真だったと思います。ご自身は、大正3年7月に槍ヶ岳登頂を果たしていますが、その後、革新的なことをいろいろと行っているんです」

革新的なこととは?

関次「槍ヶ岳のある北アルプスは、3000メートル級の山が連なる日本でも有数の大山脈です。そこに最初に山小屋ができたのは白馬岳でしたが、軍の測量部の岩室を改造した簡易なものでした。その次に出来たのが、穂苅さんが大正6年に建設した槍ヶ岳の槍沢小屋でした。まだ登山客も少ない大正時代の黎明期に、わざわざ山小屋を建てて経営しようという発想は、とても革新的なことでした」

神長「この時代、山小屋建設は本当に大変なことでした。今と違って当然ヘリコプターもないので、資材や荷物をすべて人力だけで山の上まで運ばないといけなかったのです」

関次「まさに執念ですね。それだけの強い思いがあったからこそ、槍ヶ岳を開山して祠に神様をお祀りし、登山道を整備した播隆上人(ばんりゅうしょうにん)の研究にも力を注いだのでしょう。穂苅さんは登山家、写真家としてだけでなく、山小屋の経営者、研究者、文筆家としてなど、総合的に槍ヶ岳に関わっていったのです」

穂苅三寿雄 《岩登り》 1924(大正13)年-1941(昭和16)年

写真は、どれも迫力のあるものばかりですね。

神長「穂苅さんは、ただ山を撮れば良いというのではなく、構図に工夫があったり、人を風景の中に配置してみたりと、“見る”ことと“伝える”ことを同時に考えるような報道写真の感覚があった人だと思いますね。また、松本で写真館を経営していたこともあって、人物を生き生きと撮る写真家でした。人を魅力的に撮れるのは、シャッターを切るタイミングが非常に上手いということでもありますから」

左)穂苅三寿雄《槍ヶ岳開山 播隆》自筆原稿
右)愛用のカメラ グラフレックスシリーズB

一方、冠松次郎とは、どういう方だったのでしょうか?

神長「黒部をこよなく愛した登山家、そして、文章を書く人でした。穂苅さんも文章を書く人でしたが、量は断然、冠さんのほうが多い。昭和33年刊行の『アルプ』という雑誌がありまして、その中でも、冠さんはかなりの数を寄稿しているんです。山登り、つまり未知に対する強い憧れとともに、文章と写真で記録に残すということをすごくイメージしていた人ではないかと思います」

関次「生前に著した本だけでも、30冊を越えています。ダムが建設されるまで黒部は人の入らない秘境の地でしたが、そこに冠さんは分け入って、渓谷の素晴らしさ、厳しさを人々に伝えていったんです」

神長「その生き方を讃えて詩人の室生犀星が書いた〈冠松次郎氏におくる詩〉の一節〈劔岳、冠松、ウジ長(宇治長次郎)、熊のアシアト、雪溪、前劔、粉ダイヤと星、凍つた藍の山々、冠松、ヤホー、ヤホー〉は、とても印象的ですね」

冠松次郎の写真作品にはどのような特徴があるのでしょう?

神長「沢の写真は被写界深度のとり方が難しくて、どうしても画が平板になってしまうんです。なかなか光が入らないので、撮影は一層難しい。しかし、冠さんはシャッタースピードが遅くなっても、被写界深度を深くして撮影し、奥行きのある画面に仕上げています。そういうところは本当に上手いなと思いますね」

冠松次郎《十字峡(剣沢・棒小屋沢)》1925年8月

登山を楽しむ文化が明治大正期に広まったのは、このお二人をはじめとする登山家や写真家の功績に負うところも大きいのですか?

神長「これまで何度か登山ブームがおこっています。第一次の登山ブームが、明治大正の頃、その後に、1956年に日本隊がヒマラヤのマナスル(標高8,163mで世界8位)に初登頂して第二次登山ブームがおき、その次に20年ほど前の中高年者の登山ブームがあって、第四次のブームが今の山ガールブームだと言われています。つまり明治大正期は、登山文化の黎明期であったわけです。この頃は、社会全体が進取の気性に富み、西洋からは困難な登山を追求するアルピニズムの洗礼を受けていた時代でした。登山ブームはそんな中でおこっていったわけですが、そのひとつの特徴は、本がたくさん出版されたことにあります。穂苅さんや冠さんなどの著した読み物や写真集などに触発されて、登山を楽しむ文化が大きく広まっていったわけです」

関次「開発が進んだ今とは全く違い、この頃の山は秘境ですからね。写真家も、秘境を探検するという気概をもって山に臨んでいました。当然、今みたいに登山道もきちんと整備されていませんし。この頃の登山家たちは、山に対して真摯に取り組んでいました」

冠松次郎《鹿島槍ヶ岳(小窓の雪渓より)》撮影年不詳

神長「今、山ガールがブームと言われていますけど、実際には若い男性も山に入ってきていて山ボーイもたくさんいる。今の若い人たちの時代というのは、生まれた時から目の前に携帯電話もパソコンもあり、ゲームなど非現実を遊ぶ娯楽もたくさんあるけれども、それに対し、どこかで人間が本来もっているアンチテーゼのようなものが働いて、リアルなものを欲する傾向もあるのではないかと思うんですね。彼らは、中高年登山ブームにあったようなツアーで山に登ったり、登った山の数を競ったりということはなくて、もっと文化に触れようという気持ちで山に入ってきているところがある。だからこそ、もっと山を勉強してほしいと思います。その一つが、先人から学ぶということです。二人の写真からも、多くのことを学ぶことができる。彼らが当時、どういうふうに山登りをしていたのか、つまり、まだ秘境であった日本の山に臨むにあたり、どういう装備で山に入って行ったのか、どういう苦労があったのかなど、その気概や生き方をトータルに感じて、登山の歴史を知ってほしいなと思います」

冠松次郎 ≪劔の大滝を囲む大岩壁≫ 1926(大正15)年6月

(2013年10月インタビュー 構成=富田秋子)

かんむり・まつじろう(1883-1970)
1911年、白馬岳から宇奈月に出た際、初めて黒部に接し、その自然に魅せられる。その後、立山から御山谷を下り黒部本流に足を踏み入れたのを皮切りに、20年、下ノ廊下初下降、25年、下ノ廊下完全遡行および十字峡の発見と命名など、数々のパイオニア・ワークを果たす。生涯に書き記した30を超える著作により、黒部を紹介した。
ほかり・みすお(1891-1966)
1917年10月、槍沢のババ平に北アルプスで2番目の営業小屋となる槍沢小屋を建設、21年、大槍小屋、26年、肩の小屋をそれぞれ建設。大正初期から写真家としても活躍、39年には東京山岳写真会(現・日本山岳写真協会)の創立会員として参加。播隆上人研究家としても知られ、63年『槍ヶ岳開山 播隆』を出版。