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トピックス

日本全国の美術館、博物館、資料館等の公共機関が所蔵する幕末~明治中期の写真・資料を調査し、体系化する初めての試み「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史」の第3回として「四国・九州・沖縄編」を開催します。幕末の開国と時を同じくして、日本にもたらされた写真。「夜明けまえ」つまり芸術作品に用いられる以前の写真は、どのようなものだったのでしょうか。四国・九州・沖縄での調査をもとに、展覧会は「であい」「まなび」「ひろがり」の三章で構成されます。



フェリーチェ・ベアト 題不詳(グラバー庭園のグラバーたち)(部分) 1864(元治元)年頃
長崎大学附属図書館蔵 大砲やライフルで鎧われたグラバー庭園。


であい

写真術は、1839年8月19日にフランスで発表されました。光り輝く銀の板に画像を焼き付ける、ダゲレオタイプという方式です。
写実的な絵画の歴史を持ち、カメラ・オブスクラを発明した西欧社会では、19世紀初頭から写真を発明しようと様々な努力がなされます。対して、日本の絵画は色面と主線を大切にする浮世絵に代表されるように、平面の構造を重視して再現する方法が長い歴史の中で築かれてきました。このような日本人にとって、見えるものをそのまま画面に定着する「写真」は想像を超える文明でした。では、西洋で発明された写真は、どのようにして日本と出会ったのでしょう。
それは日本の開国が鍵になります。プロフェッショナル・フォトグラファーの来日、日本初の写真館誕生もこの時期です。また、勝海舟をはじめとする咸臨丸の一行が随行した遣米使節を筆頭に、幕府の使節団が渡米・渡欧して多くの写真に写るのも開国に関わってのことでした。
本章では、東京初公開となる長崎大学図書館所蔵のボードイン・コレクションを中心に紹介します。これは長崎養生所(長崎大学医学部の前身)の第2代教頭であるオランダ人、アントニウス・ボードイン(1820-1885)が、弟アルベルト・ボードインと協力し、在日期間中(1862-1866,1867,1869-1870)に撮影および収集した大小4冊のアルバムです。フェリーチェ・ベアトによる長崎のパノラマやグラバー邸、裃袴の侍に変装したボードインらのポートレイトや、チャールズ・ワーグマンの描いた漫画をベアトが撮影した写真もあります。オリジナルアルバムの展示のほか、すべてのページをプロジェクションによって紹介します。



左)上野彦馬撮影局台紙 明治20~22年頃
中)上野彦馬撮影局台紙 明治 31~34年頃
右)上野照相(撮影)香港支店台紙明治23年頃 すべて長崎歴史文化博物館蔵



撮影者不詳 題不詳(熊本鎮台沖縄分遣隊)明治時代中期
沖縄県立博物館・美術館蔵 熊本の駐屯所として使用された頃の首里城

まなび

日本は、1854(嘉永7)年の日米和親条約の締結を皮切りに、西欧諸国と次々に条約を締結し国交を広げていきます。1859(安政6)年には、横浜、神戸、函館などの港に外国人居留地を設け、世界へ門戸を開きました。これを機に、写真技術は日本の開港地へもたらされ、普及していきました。開港以前には島津家を筆頭に、洋学研究の一環として実験が進められており、日本人による現存する最古の写真は1857(安政4)年に撮影された《島津斉彬像》です。1861(文久元)年には鵜飼玉川たちの双方によって、写真技術は習得されるのです。本章では、東京初公開となる上野彦馬の写真作品を数多く出品し、その台紙裏デザインの変遷もご覧いただける立体展示を行います。
また、内田九一による景観写真も見所です。当館が収蔵する『西国巡幸アルバム』のほか、長崎・大阪・京都・東京を含む四つ切サイズの名所アルバム、名刺判サイズの名所写真を展示します。近代化する日本の姿に和装の人物を配した九一独特の構図からは、幕末に生きた初期写真師の苦悩と気概が伺えます。写真の技術は、幕末期に新しさと商業的成功を求めて第一世代の写真師たちに体得されました。彼らの努力が次世代のあこがれを生み、日本中へ拡がっていく核となったのです。



左)ネグレッティー・ザンブラー社製ガルハ焼入器(マグネシウムを使った照明器具)
右)これに取り付けられたネグレッティー・ザンブラー社のプレート 明治初年 武雄市図書館・歴史資料館蔵



左)撮影者不詳 題不詳(役者写真) 明治時代中期
高知県立歴史民俗資料館蔵
右)撮影者不詳 沖縄美人 明治時代中期 那覇市歴史博物館蔵




左)江崎写真館  題不詳(男性像)
中)江崎写真館  題不詳(少年像)
右)「江崎寫眞舘」納品袋 すべて明治時代中期 玉名市立歴史博物館こころピア蔵

ひろがり

幕末期の日本人が求めた多くの写真は肖像だったといっていいでしょう。これによって、明治初年以降になると「写真=肖像を簡単に作ることができるもの」という認識が拡がっていきます。また、鉱山や官製工場の記録、これまで浮世絵が担っていた役者の肖像や名所絵にも写真が使われるようになります。
第二世代以降の写真師たちは、日本人の師匠を持ち、日本人の書いた文献から知識を得ることが可能になっていきます。写真術を習得するための門戸が広くなったため同業者が増大し、それぞれが生き残りをかけてしのぎを削る競争時代へと突入しました。
本章では、第二世代以降の写真師に焦点を当て、写真の普及と伝播を展覧します。多種多様な肖像写真を中心に立体展示を行い、台紙に描かれた意匠からその足跡を追います。また、現存の少ない納品袋(写真を納める時に使われた写真師の名前入の袋)や、沖縄で見出されたキャビネサイズの鶏卵紙写真、浮世絵に替わり登場する役者写真、公的記録として官制工場を写したアルバムなど、さまざまな角度から明治時代に花開いた日本の写真文化に迫ります。

明治初期から中期へと向かう日本の写真は、個人的なものから社会的なものへと拡がっていきます。写真制作技術の普及によって、「写真はどのように使われるものなのか」、すなわち「日本人の写真観」が、この時期に形成されたと考えてよいでしょう。
フィルムからデジタルへの移行によって写真が「手にできるカタチ」を持たなくなった現在、本展は初期写真を通して、モノとしての写真を改めて問い直します。初期写真の歴史的な重要性だけでなく、日本人が大切にしてきた、そして、忘れ去られようとしている「写真の存在感」を目の当たりにできる貴重な機会です。



左)井上俊三 題不詳(こうもり傘を持つ女性像)
右)蓋裏に押された井上俊三のスタンプ 明治初年 高知県立歴史民俗資料館
坂本龍馬の撮影をめぐる議論で名高い井上俊三によるポートレイト