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学芸員コラム



ルイス・W.ハイン/ナッシュビルの新聞少年たちの一群。真ん中にいるのは7才のサム。頭が良く、いたずらである。この少年は夜も新聞を売っている。/1910年メリーランド州ボルモチア大学アルビン O.キューン図書館蔵 Lewis W.Hine/Group of Nashville newsles.In middle of group is 7-year-old Sam.Smart and profanc.He sells night also.Nov.1910 (c) Albin O.kuhn Library & Gallery.University of Maryland.Baltimore Country




写真が見る者の心を揺さぶり、ついには社会変革まで起こす大きな材料となり得ることは、今でこそ当たり前のように捉えられています。しかし、その始まりにはいったいどんな背景があったのでしょうか?19世紀末から20世紀前半のアメリカでは、このソーシャル・ドキュメンタリー写真が積極的に用いられました。当時、南北戦争が終わってひと段落したアメリカの写真界では、社会の現実を忠実に記録し、発表することで人々の目を社会問題に向けさせ、社会改良を図ろうとする考えが広まりつつありました。写真はそれを表現する最適な手段だったのです。



 
 
ジェイコブ・A.リース
無法者たちの牙城
マルベリー・通り59 1/2番地、
1888年頃、東京都写真美術館蔵

Jacob A.Rlis
"Bandlts'Roost"-59 1/2Mulberry Street
(c) 1888 Tokyo Metropolitan Museum of Photography


   
「ニューヨークヘラルド」誌の警察まわりの記者であったジェイコブ・リースが、低賃金労働者の生活の惨状にショックを受け、ニューヨークで暮らすヨーロッパ人移民たちの貧困にあえぐ姿を取材し、カメラに収めたのは1890年前後の事でした。スラム街はギャングらのアジトも多く、犯罪の巣窟となっていました。しかし、リースは迷うことなくその中の安いアパートの一角を借りて住み、移民者たちの暮らしに密着しながら取材を進めたといいます。薄暗い部屋の中での撮影も、当時、新しく出たフラッシュによって可能となりました。1890年、リースはこれらの記録を最初の著書『世界のもう半分はいかに生きているか』に発表。写真版と写真をもとにした木版画、彼の文章で構成されたこの1冊の本は人々に大きな衝撃を与え、貧困は個人のみに因るものではなく、社会構造にも責任があることを気づかせてくれました。






 
ベレニス・アボット
グレイ・ハウンド・バス・ターミナル、西34丁目244-248番地 1936年7月14日

Berenice Abbott
Greyhound Bus Terminal,244-248 West 34th Street July 14,1936
Federal Art Project,“Changing New York”Museum of the City of New York,Abbott file #142
1893年になると、アメリカ全土を経済的な恐慌が襲いました。その被害を受けたのが幼い子供たちです。子供たちは安い賃金で工場に雇われ、朝から晩まで過酷な労働を強いられました。炭鉱の暗いトンネルでは 何千人という14才、15才の少年たちが合法的に雇われていました。缶詰工場ではまだ夜が明けぬうちから6才ぐらいの子供たちが小さな指でカキや海老の殻をむきながら、学校にも行かずに1日を終えていました。ほこりと糸くずが漂う綿紡績工場では、肺結核や慢性気管支炎といった呼吸器の病気にかかる子供も後を絶たず、生きて12才をむかえられる子はほんの一握りだったといいます。産業の担い手として働かされる子供たち・・・。



 


 
ドロシア・ラング
農業安定局で社会復帰中のクリス・アドルフのこども。ワシントン州ワパト付近のヤキマ渓谷

Dorothea Lange
Washington, Yakima Valley, near Wapato. One of Chris Adolph's younger children. Farm Security Administration Rehabilitation clients, 1939 Library of Congress, Prints & Photographs Division, FSA/OWI Collection
その姿を撮影し続けたのがルイス・ハインです。1906年から児童労働委員会のメンバーとなった彼は、大きな箱型カメラを抱え、メイン州のイワシ工場から、テキサス州の綿花畑まで、アメリカ中を旅してまわりました。ハインには、そこで見た悲惨な状況を広く一般の人々に知ってもらうことで、弱者である子供たちを救いたいという願いがありました。しかし、工場の雇い主からは歓迎されるはずもありません。時には暴力を振るわれることもあったようです。そこで、ハインは消防署の査察官や保険のセールスマンを偽り、工場にもぐりこみ、可能な限り子供たちの働く姿をカメラに収めようとしました。ある繊維工場では、工業写真家を名乗り、まずは機械を写した上で、その大きさを示したいからと、子供を織機の前に立たせて撮影しました。出来上がった写真は、小さな子供がいかに大きな機械を使って働かせられているかを如実に表す結果となりました。真実を伝えるために、彼は色々な工夫も凝らしました。着用していたベストのボタンひとつひとつの床からの高さを覚えておき、子供が横に立っただけで身長を測るメジャーの役割を果たしました。また、ポケットには小さな手帳を隠し持ち、撮影した子供の名前や年齢、労働時間や賃金などのデータを正確に記していたといいます。


 


 
ベン・シャーン
無題(無職の猟師たち、ルイジアナ州ブラクマインズ・パリッシュ)1935年 10月 フォッグ美術館蔵

Ben Shahn
Untitled (unemployed trappers,Plaquemines Parrish,Louisiana) October,1935
Courtosy of the Fogg Art Museum,Harvard University Art Museums, Gift of Bernerda Bryson Shahn Macintyre,Alian (c) 2004 President and Fellows of Harvard College


これらの作品は新聞や雑誌、またはポスターなどに掲載され、多くの人々に信じられない真実を白日のもとにさらしました。ハイン自身も作品を幻灯用のスライドにして各地をまわり、講演活動を行いました。やがてハインの警句なメッセージは世論を動かし、児童労働法制定の機運を高める結果となりました。彼が写した作品が、子供たちを過酷な労働から救う強力な武器となったのです。その後、写真における社会的な役割は重要な位置を確立していき、1940年には映画『怒りの葡萄』でも取り上げられた農民の惨状を、農業安定局のプロジェクトメンバーとして雇われたウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラング、ベン・シャーンらが記録しました。彼らが写し出す作品は、単なる記録にとどまらず、芸術性の点でも高い評価を得ています。そして、人々に都市の新たな価値観を見出させたのが、ベレニス・アボットの『変わりゆくニューヨーク』です。アボットは急速な機械化と工業化によって激変する摩天楼都市を即物的な眼で写し出すことに成功しました。また、1936年に設立された写真家集団『フォトリーグ』では、写真教育で世界を変えていくことを信じて、ソーシャル・ドキュメンタリーが取り入れられるようになりました。労働者階級が抱える問題など都市生活の影の部分を描写した作品は、リースやハインらがより良い社会を夢みた頃のように、どれも勇気と情熱に溢れています。アメリカを変えたソーシャル・ドキュメンタリー写真の数々。これらの作品はこれからもなお、私たちの心の中に一石を投じ続けていくことでしょう。


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