学芸員コラム

木村伊兵衛「那覇の市場」 1935年



1988年から15年にわたって続けられてきた当館のコレクションには、古今東西の優れた写真作品が23,000点以上収蔵されています。その特徴として、約70%が日本人による作品であるということがあげられます。これは幕末に写真術が渡来してから今日に至るまでの日本の写真の歴史と現在を体系的にたどることができるということでもあります。それと同時に、世界の写真史を理解するために海外の美術館に対しても誇りうる写真史上重要な欧米の作品も数多く収蔵しています。今回の連続4回にわたる写真展は写真が私たちの生活や思考にどのような役割を果たし、影響を与えてきたかという切り口で、東京都写真美術館がこれまで収集してきた作品の魅力をご紹介していきます。
左)熊谷 元一『小学1年生』より「むし下しにがそう」1953~54年
右)小石 清『半世紀』より「抜穀の挙動」1940年
1930年代に入って出現したフォトジャーナリズムは、写真がその媒体の長所を生かすことができる新たなジャンルとして、多くの写真家たちが夢と希望を抱きました。しかし1937年に日中戦争が勃発し、日本中のすべてが大きな戦争へと巻き込まれていく中、フォトジャーナリズムも国策プロバガンダのための道具として利用されていきます。これは写真家たちが期待し、望んでいたフォトジャーナリズムとは違っていました。自分たちが苦心して撮ったものが、時には切り刻まれ、偽装するために別の写真に作り替えられるなど、写真家たちにとって屈辱に堪えなければならない苛酷な状況だったからです。今回ご紹介する12人の写真家たちは、戦争という受難と向き合い、時に苦悩し、自分自身の表現方法を模索していきました。ある者は、不本意な気持ちを押し殺しながらも無言の抵抗をし、写真を撮ることができる唯一の場所に身をおき、ある者は中央の喧噪から遠ざかり、時が過ぎるのをじっと待ちました。また、ある者は戦争という衝撃的な体験を自分の表現の原動力として昇華し、写真家となる決意をしていったのです。例えば小石清は、1938年に従軍カメラマンとして中国に渡り、日本軍のために報道写真を撮影しました。そして帰国後の1940年に、「半世界」と名づけた作品を発表。平和の象徴である「象と鳩」をディストーション技法によって歪めたものや、「抜殻の挙動」として、中身のない大量の貝殻の流動している様が軍事下の国民を象徴しているように見える作品など、反戦思想を感じさせる作品を世に送り出しています。これらの作品から、従軍カメラマンとして戦地でレンズを覗いた小石の心情を察することができるのではないでしょうか。小石は、もともとは大阪を拠点とする「浪花写真倶楽部」という前衛写真を志すアマチュア写真家集団の代表的メンバーでした。アマチュア写真家は、戦況が悪 化するにつれ、表現活動は制限され、最終的にはフィルムなどの写真材料が入手困難となり停止状態となります。戦時下で、趣味の写真をやるのはもっての他という社会の風潮も起こり、国策に協力するための写真でなければ存在価値は無に等しかったのです。そのような状況のなかで、小石は残された唯一の写真表現の場として、フォトジャーナリズムを選ばざるを得なかったのかもしれません。第3部「再生」では、小石をはじめ12人の写真家たちが「戦争」という苦難とどう向き合い、写真家としての道を模索していったかを検証します。そして、彼らの生き様を通して、1930年代から60年代の写真表現を探ろうとするものです。
左)大束 元 「終戦の詔勅放送に泣く女子挺身隊員」1945年
中)小石 清 『半世紀』より「象と鳩」1940年
右)中村 立行 「ヌード」1954年