赤岩やえ(エキソニモ)へのインタヴュー

生い立ち/家族のことなど

―エキソニモの活動のタイムラインを確認しながら、エキソニモになる前のお話を赤岩さんの生い立ちから遡って聞きたいと思います。まずどのような子供だったのでしょうか。手先が器用だったという記述があって、モノを作ることが好きな子供だったのかなと思ったのですが。

赤岩      モノを作ることについては、まず母親が料理からクラフトから、なんでも器用に作る人でした。姉もそうで、無いものは自分の手で作るというのは、そういうところを見て自然に受け継いでいるのかなと思います。

でも学校の美術の授業は、小学校の頃は一番苦手でした。よく覚えているのが、粘土の授業で、瓶に肉付けしてお城を作りましょうという課題があったのですが、材料を目の前に完全に頭が真っ白になってしまって、何もできなかった記憶があります。絵にしても、写実的に描けるイコール上手いという感じになじめなくて。モノ作りは好きなのに、美術の授業はすっごく嫌いで、ほかの教科より点数も悪かったんです。何もできないで提出しちゃったりするから。しかも、先生が求めているものに合わせて作りたくないという抵抗もあったりして。

話は逸れますけど、卒業文集でも「小学校の一番の記憶ってなんだろう」と悩んだあげく、六年間通して大嫌いだった給食のおかずについて書いてましたね。ふつう「修学旅行」とかのビッグイヴェントをテーマにして書いたりするのに。私は、すごく変な匂いがするそのおかずの匂いをどうやって表現したらいいか悩んで、親に「古びたプラスチックの人形の匂いがするんだけど」ってあれこれ説明して。そしたら、「それはセルロイドの人形かもしれないね」ってことだったので、「セルロイドの給食」というタイトルで。手先は器用だったんですけど、表現は不器用でした。

―お話を聞いていると、赤岩さんは言葉にとても正確ですよね。言文一致というか。クラスの中でもちょっとユニークと思われていたのでしょうか。

赤岩      自分では感じませんでしたけど、ちょっとずれてたかもしれないですね。運動神経は結構良くて、体を使うほうが好きなタイプでした。ドッジボールはキャプテンで、アマゾネス級の強さでしたよ(笑)。

―クラス委員とかもやっていたのですか?

赤岩      そういうタイプじゃなかったです、幼稚園で早々にひねくれちゃって。幼稚園の時に体が大きくて目立っていたんですよね。それで何かの代表に選ばれやすくて。園の代表のあいさつやらされたり、鼓笛隊の指揮者やらされたり。その時「みんなの代表に立つ」ということに、すごい嫌悪感が生まれちゃったんです。だから、いかに人の前に立たなくて済むか、いかに代表にならずに済むかということに関しては、小学生の頃からすごく工夫していました。そういう性格もあって、匿名でもいられるインターネットは、すごく向いてると思います。

―ところで映像作家の親が、医者というパターンは結構あるように思っていて、赤岩さんのお父様も心臓外科医なんだって気づいたのですが。

赤岩 裕福な家庭の子が美術を目指すというパターンはあると思いますが、うちの父は贅沢は悪みたいなタイプで、車も床に穴が開いて道路が見えても乗ってるような人でした。

―お金持ちということよりは、形成される感受性みたいなものに影響するのかなと思いました。赤岩さん自身は理系ではなかったんですか?

赤岩 私は全く理系ではなかったです。父は、元々心臓移植の研究をしていたので、自転車のパーツを使って試作していたとか、そういう手探りの実験の話などは面白いなと思って聞いてました。あとは、祖父も医者だったんですが、恐ろしく怖い人だったらしく、その怖い祖父のエピソードを面白く聞かされてました。私は祖父の血を引いてる、と言われてましたね。

―テレビを観てはいけなかったのは、ご両親の方針ですか?

赤岩 私はそんなにテレビを観る方じゃなかったと思うんですけど、ある日、父に「テレビ観すぎ。そんなに観るなら捨てるぞ」って言われて「じゃあ捨てればいいやん?」って言ったら、次の日なくなってた(笑)。それから何年間かテレビがない生活でした。だからもちろんファミコンもなかったです。ボードゲームやアナログなゲームは家族でよくやってましたけど、父が全然手加減してくれないので、負けてよく泣きわめいてました。

―ビデオゲームをやっていい家とやっちゃダメな家がありましたよね。やっちゃいけない家の子の方が頭が良いというのを植え付けられていた気がします。

赤岩 うちは、ビデオゲームに限らずおもちゃをあまり買ってもらえなかったですね。それでグレましたけど(笑)。今、自分が親になりましたけど、うちはビデオゲームもアナログのゲームも結構やってますね。自分でゲームを作ったりもしてます。押さえ込みすぎてもよくないし、バランスが大事かなと思います。

―環境が、その当時と今では違いますもんね。

赤岩 最近のビデオゲームは、オンライン化して友達とのコミュニケーションの一つにもなっているので、一概にダメとも言えないですね。時間の管理とか、何をやると危ない、とかリテラシーも高めながら、子供本人も私たちもやっています。特にコロナ禍の今は、オンラインゲーム上が放課後の遊び場にもなっていて、パブリックスペースというか、公園みたいになっているので、そこに行くなとも言えない状況ですしね。

―ゲームに依存しているというより、日常になっているんですよね。

赤岩 そうなんですよね。だから自分でバランスをみてコトロールできるようになるのが良いと思います。子供がオンラインゲームをやっているのを見ていると、アバターとしての新しい身体を獲得しているように見えますね。うちの子は、《Minecraft(マインクラフト)》というゲームが好きなんですが、ゲーム内の仮想の自然と実空間の自然の間をシームレスに行き来している感覚があるようです。彼女のインスタグラムには、実空間の自然の写真と《Minecraft》の自然の写真の両方が対等に出てきていて、お互いが影響しあってるんですよね。地続きに見ている新しい感覚だなと思います。

―また赤岩さんの話に戻すと、美大を受験しようとしたきっかけは何だったのでしょうか?

赤岩 私は、基本的に先生不信、学校嫌いで、中学の時も学校に行く理由が見つからず高校に進みたくないと言っていました。結局、家から一番近い学校に進学したんですが、入学した日に「やめる」と親に言ってました。そうしたら、父が「3か月行ってもいやならやめていい」と言ったので、やめるつもりで通っていたら、なんとなくそのまま3年間通っちゃいました。まんまと父の作戦にはまったな、と後で思いましたが(笑)。そんな感じだったので、大学進学なんて全く考えていませんでした。

高校時代は、街でフラッと知り合った年齢もバックグラウンドもバラバラな音楽好きな人達と遊んでました。ライブハウスに入り浸ったり、知り合いのお店に出入りしたり。当時パンクが盛り上がってたんですけど、服も自分で作ったり友達に作ってあげたりしてました。その頃、学校じゃなくて、自然に人が集まるたまり場的な「場」の楽しみを知ったので、自分も何か面白い「場」を作りたいと漠然と考えていたりしてましたね。

で、高校卒業して何やろうかと考えているとき、7歳上の姉に「大学は高校までと違っておもしろいから行ってみたら」と言われたんですよ。私が学校嫌いなのはよく知ってたはずなのでそんなこと言ってくるのが意外で、もしかしたら何かあるんじゃないかと思って進学を考えるようになりました。かなり漠然と「場作り」をしたいというのはあったんですけど、それにはどこが相応しいのか全然わからなくて、結局彫刻科を受けることにしました。彫刻科は実技の試験があったので、デッサンを習いにアトリエに通ったんですけど、先生の講評にまた納得がいかなくて怒ってやめちゃって。結局、そのアトリエから合格したのは、その年私しかいなかったみたいですけど(笑)。そのあとは、学校から石膏像を借りて家で描いたり、一人で美術室で描いたりしてましたね。高校の美術の先生がすごく気さくでいろいろと助けてくれて。

―千房さんがデザイン科で、赤岩さんが彫刻科出身っていうのは、これまでのやり取りを通して腑に落ちていました。例えばインスタレーションや物理的な現場のことについては、赤岩さんが話してくれたり、エキソニモの二人に役割分担があるような気がしていたので。彫刻科と聞いて、そういうイメージを持ったのかもしれませんが。

赤岩 いつも聞かれるのですが、明確な分担はないと答えています。それでも、自分が好きな方という感じで、ぼんやりと分担されているのかもしれませんね。でも彫刻科だからといって、大学に入学してから、熱心に塑像をやる、とかいうタイプでもなかったです。何か立体物を造るっていうことに興味があったわけではなくて、空間を含めた何かをやりたかった。

―すごい、哲学者みたいな入り方ですね。実際に彫刻科で彫刻は制作されていたのですか?

赤岩 3年くらいは彫刻に打ち込むのも良いかもと思っていましたが、始めたらやっぱり違うなと。裸婦を前にずっと考えていました(笑)。でも、アトリエに籠るタイプではなかったので、他の学科や学年の友達がたくさんできて、そういう人たちと遊びの延長でいろんなことをしてました。

―キヤノン・アートラボでアルバイトをしていたんですよね?

赤岩 友人がたまたま六本木で知り合った海外の作家が、作品のアテンドをする人を探していたんです。その仕事は、単なるナヴィゲーターではなくて、作品の一部としても重要な役割でした。それから、何度かアートラボの企画展で作品のナヴィゲーターをやらせてもらいました。その時に鑑賞者と直接コミュニケーションした経験は、今作品を展示するようになってすごく役にたってるんじゃないかと思います。生身のナヴィゲーターとのコミュニケーションって、場合によっては作品以上の体験になっちゃうので、実はすごく大事だと思います。

―どのような作家さんのナヴィゲーターをされていたのですか?

赤岩 ウルリケ・ガブリエルさんとか、三上晴子さん、沖啓介さんとか。それと、ナヴィゲーターとは違いますが、古橋悌二さんの《LOVERS》(1994/2001)のウェブサイトを作ったりもしました。千房くんが一度展示に来たことがあるんですが、全くピンときてない感じでしたね(笑)。まだスケボーとかばっかりやってる頃だったかな。私もアルバイトで稼いだお金はすべて旅行につぎ込んでました。東南アジアとか、モロッコとかふらふらして……。まさか自分がメディアアートをやることになるとは、その頃は思ってもなかったです。

インターネットとの出会い

―インターネット会場の年表に「1994 赤岩、一人旅の途中、大雪のため飛行機が飛ばず、機内とロビーで一晩明かす。その時出会った人にインターネットの話を聞かされ興味を持つ。旅に行かずとも世界とつながることに感銘をうける。」とありますが……。

赤岩 (笑)その時はモスクワ経由でヨーロッパからモロッコまで行ったのかな。アエロフロートで北回りの格安チケットで。その頃は円高だったので、貧乏な学生でもふらっと海外に行けたんですよね。その日は関東が記録的な大雪で、機内には乗り込んだけどいつまでたっても出発できずに止まった飛行機の中で何度も機内食食べたりしました。周りにも一人旅をしている若い人が結構いて、非常事態の中で団結して仲良くなって。その中に、転職のタイミングで旅行している女性がいて、その人がこれからインターネット関連の仕事をするというので、「インターネット」って何?という話をずっと聞いていました。「電話回線で世界とつながって」なんていう話をひたすら。それがインターネットとの初めての出会いでしたね。

その縁で帰国後に彼女の会社でアルバイトすることになって、そこで初めてウェブページを作る経験をしました。初めてのインターネット体験は衝撃で。会社でインターネットにつながってるパソコンが一台しかなかったんですけど、そこで海外の誰だかわからない人の日記のページを見たりして。世界との新しいつながり方があることに興奮してました。「これ、ヤバいんじゃない!?」って。

―HTMLとかコーディングすることに抵抗はなかったのですか?

赤岩 初めは他人のページのソースを見て、ここはこうなるんだな、とか分析しながらやってましたね。その頃気の利いた教則本もなかったので、変な抵抗感なく入れてよかったかもしれないです。

―周りの友達で、インターネットをやっていた人は?

赤岩 始めたころは周りにはほとんどいなくて、友達に話したら気持ち悪がられたりしてました(笑)。

―千房さんとは出会っていたのでしょうか?

赤岩 千房くんとは出会ってました。大学卒業と同時に私が父に初めてのパソコンPower Macintosh 6100を買ってもらったんですけど、千房くんとは、その一台のマシンを共有して遊んでましたね。最初は、インターネットにつながっていなかったので、そこまでハマることはなかったんですけど、インターネットにつながったとたん全く別ものになって、そこからインターネットでしかできないことをやろう、と一緒にウェブサイトを作り始めました。

―それまでのメディアアーティストというと、男性が多くて、コンピュータを駆使して作っている印象が強いと思います。エキソニモの場合は、赤岩さんもプログラマーとしての印象があるところが違いますが。

赤岩 もともと私はそういうタイプじゃないです。千房くんのほうが、プログラマーの素養があって、向いてると思います。私はプログラミング自体が好きなわけじゃないので、やりたいことを実現するのに必要じゃなければやらないかな。

―でも、苦手意識があるわけじゃないですよね?

赤岩 やってて快感がないので苦手なんじゃないでしょうか。でも、チームとしては違った視点が持てるので、どちらもガリガリプログラムやらない方がいいこともあるんじゃないかと思っています。

―以前お二人一緒のときに、あまり「メディアアート」を作っているという意識をしていないと仰っていましたね。後になって、「メディアアーティスト」と呼ばれることが多かったということでしょうか?

赤岩 そうですね。周りからそう言われて意識するようになりました。最初はそう呼ばれるのに抵抗ありましたけど。私がアートラボなどで見てきた「メディアアート」と、自分たちがやっていることは違うんじゃないかと思っていたので。でも、新しい技術を使うことにとらわれなくてもいいんだ、と思うようになって、これがメディアアートだよ!開き直って思うようになってきました。私は、メディアアートとは、メディウムそのものに言及したアートだと思っているので、いわゆる先端技術を使ったメディアアートといわれるものとはちょっと違ってて、絵画や写真なんかでも、作品によってはメディアアートだと思うものがあったりします。

―メディアアートに限らず、アート全体の中で何か影響を受けたものはありますか? 今お話を聞いていると、日々の違和感や問題意識から出発して、結果的にアートのところに来たような感じがします。でも当時意識していなかったけれど「あ、この人面白い」って思ったアーティストはいますか?

赤岩 学生時代にフジテレビの深夜の実験枠でやっていた岩井俊雄さんの「アインシュタイン」というテレビ番組が好きだったんですけど、何年も経って初めて岩井さんにお会いしたとき、「君たち作品なんかつくってないで子供つくりな!」って猛烈な勢いで言われて、面白い人だなーと思いました(笑)。私の場合、予想外の出会いや身近な人からの影響が重なって結果アートのところに来た感じがします。もともとアートが好きでアーティストを目指していたらここにはいなかったんじゃないかなと。

―アートというよりは、音楽とかパンクとかから影響を受けていたのでしょうか。

赤岩 なんでしょうね。影響というか、性格ですかね。パンクも性格にフィットしていたというだけかもしれないです。インターネットもそうかもしれません。何かに影響を受けて始めるというより、好奇心と不満と渇望が原動力になって何かやっちゃってるという感じですね。

転機となる作品とエキソニモの活動の広がり

―これまでの活動の中で、赤岩さんご自身にとって転機と言えるような作品はありますか?

赤岩 よく人から言われるのは《Object B》(2006)ですね。転機っていうと、活動を通して見たときに結果転機になった作品と、自分にとって転機になった作品があるんですけど、自分の中で転機になったのは《DEF-RAG》(2008)です。その作品は、デジタル空間とフィジカル空間のギャップを扱った作品なんですけど、力みすぎてフィジカルの方が強く出過ぎてしまったんです。それが現代美術の方面から思いがけず反応がよかったんですよね。それで失敗したな、と思いました(笑)。それ以降、デジタルとフィジカルのバランスにすごく気をつけるようになった自分にとっては転機の作品です。

―それは現代美術の人たちはがっかりですね(笑)。

赤岩 そっちに行ってはだめだ!という内なる声が聞こえました(笑)。

―それってすごく微妙なところですよね。デジタルとフィジカルの分量や境界線って難しいじゃないですか。そのような赤岩さん個人の考えは、どのようにエキソニモの作品として昇華していくのでしょうか。またその難しさについても具体的にあれば教えていただけますか?

赤岩 難しいですね。ちょっとしたさじ加減で変わってくるものなので、いつもそこで揉めてます。基本的にふたりがオッケーと思うものがエキソニモのバランスで、それは私個人の感覚とは少し違うところもあって、そこに苛立ちを感じることもあります。

―どういう時に苛立つのですか?

赤岩 あたりまえですけど、100%自分じゃないというところですね、お互い。そこが面白いところではあるんですけど。最初は何も存在しなかった「エキソニモ」というものが少しずつ育ってきて、自分たちの中でも「自分の中のこの部分がエキソニモ」という不思議な領域があって。エキソニモでやりきれないこともたくさんあるので、それは違うプロジェクトとしてIDPWをやったり、キュレーションをしたりして解消してます。

―IDPWはエキソニモの一部ではないと理解して良いのでしょうか?

赤岩 言い出しっぺがエキソニモなので、エキソニモ色は強いかもしれませんが、私にとってはまた別のプロジェクトですね。。エキソニモではできないことが、他のメンバーとの関係性の中からできてると思います。エキソニモではこだわりが強すぎてやりにくい「ゆるい場作り」ができるのが自分にとってはエキソニモにはない魅力ですね。

新しい年表と時間感覚

―今回、インターネット会場の年表制作の中で、普通に考える年表とは随分違うところが面白くて、エキソニモの時間の感覚がすごく独特なのかなと思いました。赤岩さんは、その点どう考えていますか?

赤岩 時間感覚って、歳を追うごとに変わっていきますよね。特に、子供を産んだ時とニューヨーク(NY)に来てから大きく変わったなと思っていて。若い頃は、自分の人生の範囲内でしか考えられなかったのが、人類スケールにグワッと広がった感じです。アメリカは、アートに限らず「自分たちが歴史を作っている」という意識がすごく強くて、長いタイムラインで考えて、自分や自分がやったことをどう位置付けていくかという視点を常にもっているように見えます。アートに関しても同じで、作品を作家の人生よりもっと長い時間の中に置いて見ているんだと思わされることがよくあります。そういった環境にいることで、作品の保存について考えるようにもなったし、自分がいなくなった後に、自分の作品と未来の人が対話する状態をイメージするようになりました。

作品っていろいろな残り方があって、例えば、ゲームの中に残っていることもあります。例えば、百人一首とか。かるたになったのは歌が作られた頃じゃなくてもっと後ですが、ゲームの中に歌が残っていて、ゲームをやりながら歌とその時代の人とコネクトする瞬間がある。鹿のなく声がどうのこうの、とか聞くと、千年前の奈良とパーン!とつながったりして。自分の作品に関しても、いわゆる作品の保存ではなくてどんなつながり方ができるのか考えていたり、長いタイムラインの中で、自分たちはここのポイントにいるというのも、面白く見せられると良いなと思っています。

―回顧展であり、展覧会自体が作品のようになっているのも、エキソニモらしくて面白いと思っています。

赤岩 実は、過去の作品を再現して見せる回顧展にあまりやる気がでないんですよね。新しいことをやりたくなっちゃうじゃないですか。なので、「その回顧展というフレーム自体を新しく、作品として考えよう」と捉えたら、やる気が出ました(笑)。

―昔、花札をやられていたことも、年表にありましたね。百人一首とつながる気がします。

赤岩 花札や百人一首のようなアナログなゲームは、ルールと共に継承されていくものがあって、実際に体験することができるのが面白いなと思います。メディアアートも体験を重視するものが多いので、そういう意味でゲームと近いのかなと思います。答えは出ていないですけれど、その辺りはいつも気になって考えているところです。

―それぞれが主人公で動かせるという面白さがありますよね。インターネット会場のタイムラインの体験も、観る側が自分を中心に考えられるといいですよね。ゲームみたいに入っていけると。

赤岩 そうですね。

ジェンダーの問題

―ところで最後にジェンダーの問題に関してうかがいたいのですが、どのようにお考えですか。

赤岩 日本はやりにくいです!! 男女のユニットじゃないですか。するとやっぱり、男子をメインに考えられがちというか。もう、ずっとそうだったので、はいはいって感じですけれど。私は前に出たいタイプじゃないし、千房くんの方がスポークスマン的なタイプなんで、そういう意味での差もあると思うんですけれど。初対面の人でも、千房くんにしか挨拶せずこっちを見もしないとか。二人の関係性がわかってなくてもそうだってことは、社会がそうなっているんだなあ、と。NYに来てからそういう扱いをうけることがないので、日本との違いを肌で感じてます。

―日本特有の事情がありますね。

赤岩 男女がいると、女子がアシスタント的に見られますよね。

―男女のアーティストで、しかも夫婦だと、余計にそういう風に見られるのかもしれませんね。結成した時から、この問題は常に起こっていたと思いますが、どうしていけば良いか、というのはありましたか?

赤岩 個人的には、そういう人とは仕事しないとか (笑) 。うちは片方が男なので、扱いの差が露骨にわかったりしますけど、ひとりでやってる女性のアーティストは、気づかないうちにそういう社会にチューニング合わせてしまってたりするんじゃないかと思います。例えば「美人女性アーティスト」というような取り上げられ方、男性にはないですけど女性にはあって、何だか綺麗じゃないといけない、みたいなプレッシャー感じてたり(笑)。作家の見た目なんかどうでもいいはずなんですけどね。

―さすがにこの辺りは、日本でも最近では引っかかる人は増えていますね。自分のいる環境では、以前の上司が、早い段階からジェンダー意識を持って取り組まれていたので、私もよく「女性キュレーターが無意識に男性アーティストを選ぶことが多いことは問題だ!」と言われてきたり、自然に意識するようになりました。今は逆に、女性アーティストを入れておけば良いという風潮もありますね。

赤岩 そこは難しいですよね。津田大介さんが「あいちトリエンナーレ2019」でやったように、アーティストを男女半々にしてみるとか、それくらいやらないと変わらないかもしれないですよね。そもそもアートが、男性の方がやりやすいフィールドなのであれば、良いものを選んでいくと男性の方が多くなってしまうのかもしれません。でも、最初は荒治療になるかもしれませんけど、強引にでも席を確保してみるのはアリだと思います。私も明らかに女性枠で呼ばれているな、という時もありますけど、席を用意されたら役目と思って受けるようにしています。

―いずれにしても、日本のメディアアートは女性が少ないですよね。

赤岩 YCAM(山口情報芸術センター)で共同キュレーションした「メディアアートの輪廻転生」(2018)では、ジェンダーバランス悪いわ~ってずっと言いつつ結局アーティストがみんな男の人ばっかりになっちゃいました。女性にも声をかけたんですが、女性が男性以上に慎重なのがちょっと気になりました。NYは、女性のプログラマーも多いし、メディアアーティストも活動的です。日本ももっと女性が素でガンガンいけるようになればいいなと思います。

―男性の方が、プログラミングが得意ということもないと思うのですが。

赤岩 どうでしょうね。アメリカは女性のプログラマーもコンピュータサイエンティストも多いので、実は男性の方がコンピュータを得意とするとのも、教育の中の刷り込みが大きいかもしれませんね。ちなみに、うちの娘は中学で数学とコンピュータに特化したクラスに入っていて、全く苦手意識はないみたいですけどね。下の世代が変わってくるといいですね。

(2020年6月28日 午前[NY]/ 6月29日 夜[東京]ヴィデオインタヴュー: 聞き手・構成=田坂博子 [東京都写真美術館学芸員] )

  1. 「インターネットが降臨する場を創出する」というテーマで活動している、日本のアーティスト集団。団体の名称は、「IDとPW(パスワード)さえあればいつでもアクセス可能」という点に由来する。「100年前から続く、インターネット上の秘密結社」というコンセプトを持つ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Idpw