千房けん輔(エキソニモ)へのインタヴュー

生い立ち/家族のことなど

―エキソニモの活動のタイムラインを確認しながら、エキソニモになる前のお話を千房さんの生い立ちから遡って聞きたいと思います。まずどのような子供だったのでしょうか。

千房 自分の記憶ではないですけれど、親から聞いたりすると、幼稚園の時、割とそんなに難しい子ではなかったみたいで。母親曰く、天真爛漫みたいな。逆に僕の弟は結構大変だったみたいですけれど、僕は全然手がかからなかったみたいです。幼稚園の時、お遊戯とかやると、わざと皆と逆のことをやろうとしたりしていたらしくて。しゃがむところでわざと立ったり。あとそうだ、折り紙とあやとりがめちゃくちゃ得意だった。

―幼少期の記憶はご自身ではあるのですか?

千房 折り紙とかすごく好きでやっていたし、あやとりもめちゃ好きだったのは覚えているんですけれど。例えば、ペンギンてお題出したら、折り紙で即興で作っちゃうみたいな。幼稚園の時は、結構そういうのにはまっていましたね。

―ご家族の方々の手先が器用だったとか理由はありますか? お母さんが家で結構モノを作る人だったとか。

千房 いや別に特にそういう感じでもないですけど。クラフトという意味では何か作っていましたけれどね。革細工みたいなものなど。あと母親は、子供を集めて映画を見せるイヴェント、子供会を主催してたりしていました。父親はもともと、東京オリンピックのボクシングの候補選手で。

―年表に書いてありました。すごいですね。

千房 結構強かったみたいで、実家にある父親のアルバムを見ると、若い時から新聞などに出まくっていて、国体優勝とかしていて。オリンピックも確実に行ける予定だったんですけど、政治的な駆け引きで負けて。本人曰くですけれど。

―すごい、ドラマチックな話ですね。

千房 補欠になったことが本人の中ですごいトラウマとして残っていて。だから子供時代にボクシングの話は全然してくれなかったんですよね。

―じゃあいつ知ったのですか?

千房 母親から聞いたりとか、ですね。男の子だし興味持つじゃないですか。お父さん強いみたいな。聞いても、適当にはぐらかして、教えてくれなくて。

―お父様はボクシングをやめた後は違うお仕事をされていたのですか?

千房 そうですね。仕事自体は文系の仕事で、編集とか、デザインに近いというか。デザイナーっぽいデザインというより、もうちょっと報道とかジャーナリズムっぽい記事などをレイアウトするみたいな。そういうお堅いレイアウトしたり編集したりする事務所をやっていて。全然スポーツ系ではなくて。

―不思議ですね。でもボクシングなどのスポーツをお父様の影響でやることはなかったですか?

千房 全然なかったですね。父親がそういうのを出さなかったので。僕自身はスポーツ全然得意じゃなくて。父親がそのことを隠しているのは、子供心には感じていました。父親は何か長いものや体制に対して、すごく反骨的というか、嫌う感じがあったんですよね。

―なるほど。そういう血筋は受け継がれていますね。

千房 そうですね。オルタナティヴ的な感じというか。世の中で目立っている主流なものに対して、アンチみたいな態度をずっととっていて。それはすごく子供心に覚えていますね。例えば、アンチという意味で言うと、テレビを見ていて、コカ・コーラの爽やかなCMとか流れると、「こういうのは好きじゃない」みたいな。「こんな爽やかなものは嘘くさい、人間はもっといろいろあるはずだ」って(笑)。

―かっこいいですね。

千房 という感じで。今から思えばコカ・コーラのCMごときでそんな(笑)。毒付かなくてもいいじゃないって気もしますけれど。でも割と子供心には、へーそうなんだっていう気持ちがありましたね。

―お母様のご兄弟が永六輔さんですよね。

千房 そうですね。母親の兄が永六輔で、叔父さんです。しかも誕生日も4月10日で一緒なんですよ。

―そうか。すごい。

千房 兄弟の中でも、母親と六輔叔父さんは結構仲良くて。ずっと良い関係で、そんな中で僕が誕生日一緒だったりするので、なんか少しは可愛がってもらえてるというか。子供の時はそんな親密な関係でもなかったですけど。

―ラジオで、エキソニモと永六輔さんとで対談されていますよね?     (注1)

千房 2、3回、叔父さんのラジオに呼ばれて、「デジタルとはなんだ?」みたいなことを聞かれたことがあって(笑)。叔父さんは、放送中のキャラクターはすごくハキハキしてるけれど、実際の空間ではあまりコミュニケーション感ないんですよ。インタラクティヴ性がないというか。ものすごくシャイな人で。毎年お正月の親戚会に必ず来て、お年玉いっぱいくれる、金額が高いって意味では子供心に良い叔父さんだったんですけど(笑)。そういう親戚会でも皆とコミュニケーションとるというより、割と自分の家族が周りにいて、ちょっと孤立しているというか。他の人たちも触れにくい感じ。

―いずれにせよ、すごい有名人ですよね。

千房 もちろん、超有名人。でも家族なので、そこまで。話しても、割と心が通じ合う感じがちょっと薄い感じもありましたね(笑)。

―何考えているかわからないみたいな?

千房 割とそうですね。自分のペースでわーっと言う感じで、なんか言っても通じてないというか、笑って全部吹き飛ばしちゃうみたいな。

―シャイだから、ハレの姿でいっぱいしゃべっているみたいな感じでしょうか。

千房 番組が始まると、スイッチが入るみたいな。特に年を取って、弱ってきた時は、番組が終わったら抜け殻みたいになってましたね。でも番組始まるとシャキッとなるっていう。ラジオに呼ばれた時の面白いエピソードで、依頼の仕方がめちゃくちゃ変わっていて、うちの母親に、「ちょっとけん輔くんに出てほしいんだけど」って話がまず来て。それをうちの母親から伝言で聞いたんですよ。「別にいいですよ」って感じで電話で返事をしたら、細かい説明を一切しなくて「次の放送聞いたらわかるから、次の放送聞いたらわかるから」ってそれだけ。それで終わり。それで僕は、ラジオなんか持ってなかったので、ラジオを買ってきて、放送日にチューニングを合わせて聞いていたら、そこで、「次の週に僕の親戚の子を呼ぶから」って、「いいか、けん輔くん聞いてくれ」って。「説明をするというのはちゃんとわかりやすくやらないとダメだ」って、そこでオリエンテーションというか(笑)。企画説明がラジオ越しできて。

―すごいですね。ある意味ラジオを通じたインタラクションみたいな。

千房 メディアアートじゃないですけれど。

―ラジオアートみたいな(笑)。

千房 その問題点は質問は一切できないっていう(笑)。受け取ることしかできない。一方通行なんですよ、こっちから異を唱えることはできない。聞くだけっていう。それはちょっと面白かったですね。

―それはエキソニモとして出演したのですか?

千房 そうですよ。二人で行って。作品に踏み込むってことはなくて、デジタルとは何かという大枠を、わからないから説明してくれないかって。でも完全に叔父さんの中ではデジタルを否定することは決まっているんですよ。あらすじができているので、聞かれたことに対しても、それはどうかなって姿勢がずっと一貫していて。そういう意味ではやり甲斐は全くなかったですね(笑)。

―でも向こうから声かけたっていうのは、やはり、自分の血筋みたいに、なにか変なことしている子がいるって、気にかけていたってことですよね。

千房 そうですね。応援している意識はあると思います。展覧会見に来てくれたりしたこともあって。メ芸(文化庁メディア芸術祭)の展示とか。

―そういう時の反応はどうでしたか?

千房 いやもう全然わからんって感じで。その時に言われたのが、叔父さんの話ばっかりになっちゃいますが、検索ワードを入れたら検索結果が画面にカットアップされる《FragMental Storm》(2000)を展示していて、そこに叔父さんが来て、キーワード「永六輔」で検索したんですよ。画面上でずっとかき混ぜ続ける、そういう作品だって説明したら、「うーん、こういうのは止めることが作品なんだ」って言って。「ずっと変わり続けるんじゃなくて、どこで止めるのかが作品なんじゃないの?」って帰って行きましたね。

―いや、なるほど。それは何ともオーセンティックかつ編集者的な視点でもありますよね。

千房 例えば絵を描くとかはそういうところあるじゃないですか、描き続けてここで完成っていうのが作家の表現という。完成してから見せられるところが作品の出発点だと、そういう意識なのかなって。いつまでも変化し続けるのが作品だっていうことを、叔父さんは受け入れなかったですね。

―ずいぶん一貫して新しいものには批判的なのですね。むしろ幼少期よりも、エキソニモとして交流が生まれてから、叔父さんの考えに触れたということなんですかね?

千房 とはいえ日本のテレビの黎明期を作り上げた人なので、つまり当時の「ニューメディア」人間なので、シンパシーはありますよ。小学生の頃とかはテレビでも有名な人が親戚だという意識はありつつも、そんな叔父さんが何をやっているかはわからなかったので。スピリットとして何かを受け取ったのは、子供の時代はそんなになかったですね。

―お母様方が、浅草のお寺ということは影響がありましたか?

千房 お寺の家ということは、多分、何気にはあると思うんです。母親はつまりお寺の娘で、六人兄弟がいて、上二人男で、下に男二人女一人の、でかい家族だったんですけど。お爺ちゃん、お婆ちゃんの家に行けば、お寺という感じで、子供の時はそれくらいの印象しかありませんでした。でも母親が何となく、子供心に何かやりたいことがあるけれど、できなかったんじゃないかと何となく感じていて。

―あ、ブログに書いてありましたね。

千房 それを、最近になって聞いたら、お寺の家なのですごく見栄やプライドが高いんですよね。おばあちゃんもかなり厳格なところがあって、女性は表に出るなみたいな、そういう考え方があって、母親が大学に行きたいと言った時も、女が大学なんか行くものじゃないって反対されて行けなかったり。母親とはそういう確執もあったみたいで。

―お母さんは自分でいろいろやりたいことがある感じの方なのですか?

千房 その時は普通に主婦をしていたので、子供を集めて会を開いたり、子供のためにいろいろやってくれたり、映画の上映会をやったりしていて。映画配給会社に問い合わせをしてフィルムを借りて集会所を借りて、子供を集めて上映会するのは、結構僕はもう大きくなってもやっていた記憶がありますね。親がイヴェントを企画したりしていた影響は結構あったような気がします。今思うと、そういうことを普通にやっていいんだって、子供心に思えるというか、親がやっているので、例えば「インターネットヤミ市」(2012-)みたいな企画をしてやるっていうのも、子供の時から、企画してできるんだということを信じていたからかもしれない。

―それはかなり大きな影響な気がするので面白いですね。幼少期の話で言うと、赤岩さんはファミコン(ファミリーコンピュータ)を買ってもらえなかったそうですが、千房さんの場合はどうでしたか?

千房 どっぷりつかりましたね。ファミコンの前に父親がカセットビジョン(注2)を買ってきたりして。カセットビジョンって、ファミコンの前に出た、初めてカセットを差し替えることでいろんなゲームがやれるっていう端末で、その前は一つの端末で一つのゲームしかできなかった。カセット入れ替えるとゲームが入れ替えられるのは画期的だった。

―ファミコンにかなり近い感じですよね。

千房 そうですね。ファミコンの前の世代で、父親がそれを突然買ってきて、クラスの男の子が毎日大量に押し寄せるみたいな(笑)。ファミコン登場までは結構あって。ファミコンが出てきて、すごいはまって、でもうちには最初なかったのかな。弟がお年玉で買うまではなかったので、おもちゃ屋さん行ったら、店頭にあるファミコンでとか、友達の家にあるやつとか、結構うまく親をごまかしながら、本屋さんに行くって言って、おもちゃ屋のファミコンやったりとか。親が完全に許してるというよりかは、時間制限してやりなさいって、一日一時間って。その親の目を盗んで、そういうところ行ってやったりとかはしていて。ゲームは影響をめちゃくちゃ受けましたね。覚えてるのは、テレビのCMでスーパーマリオが出てきた時に、画面がスクロールするんですよ、横に。それまでってマリオブラザーズとか、一画面だった。それが、パーって横スクロールしてる画面に、結構衝撃受けて鳥肌が立ちました。可能性が無限に広がった!って思って崩れ落ちましたね(笑)。

―それはよくわかります! スーパーマリオは人生を変えてるって(笑)。そのころ特にスポーツとかはそんなに熱心にやってないですか?

千房 やってない。

―意外ですね。スケボーをやってるじゃないですか。それとは別ですか?

千房 普通男の子は、小学生高学年になるとサッカークラブとか、野球部とかに入ったりがあると思うんですけれど。全くそういうのをやらないで、仲いい友達と大体やっているのは、ゲームやスーパーマリオで行われてることを現実でやるっていう。ここからここまでジャンプするとか。

―可愛い(笑)。

千房 現実空間に自分たちでゲームを作って(笑)。

―それもうエキソニモですね。

千房 ゲーム世界を現実世界にコンバートして遊ぶみたいなことは完全にやっていて。

―それはスーパーマリオ以降ですか?

千房 それやっていたのは小4、5年生とか。小学校の高学年の頃、自分たちでゲームのルールを考えて、それで遊ぶっていう。一番ヒットしたのは「忍者ごっこ」ってやつで、それはゲームから来たわけじゃないんですけど、敵と味方に分かれて、陣地で宝物を盗むことをやりあうゲームで、ルールもやりながら変えていったりして。ここは安全地帯にしようとか、その場で作ってやっていくっていうのは結構、それは一番楽しかったですね。

―それは男の子だけですか?

千房 そうですね。時代もあるかもしれないけれど、基本男の子と女の子分かれて遊んでいました。

―面白いですね。クラスではどういうタイプの子供でした?ゲームを考え出して、中心的にしきってるタイプだったんですか?

千房 ガンダムが流行ったじゃないですか。その時に忍者ゲームをカスタマイズしてガンダムヴァージョン作って、クラスの男子皆でやったりとかは覚えてますけれど、どうなんだろうな。クラスの中でどういうキャラだったかは、客観的には。

―あんまりそういう自意識はないってことですか?

千房 まあなかったかな。わからないけど、普通に楽しそうにしている男の子(笑)。

―学校に行くのが楽しいなってタイプ?

千房 普通に楽しかったですね。友達と遊んでいて。

―赤岩さんの話は、いろいろ疑問を持ちながら、幼稚園とかを過ごしている感じだったので、そこは女の子と男の子で違うっていうところかもしれないですね。

千房 かもしれないですね。当時の遊び方は結構無茶していたので、今で考えたら難しいんじゃないかって思うのもありましたね、忍者とかすごい好きだったので。

―忍者?

千房 忍者とか、スパイとか好きで。学校帰った後にわざと忘れ物して帰って、その後学校に忍び込んでました。昼休みの時に目立たない窓とかの鍵とかわざと緩めて振動を与えると開いてしまうくらいにして帰って、夕方にそこから忍び込んで、それで誰もいない学校の中を友達と忍者とかスパイのふりして、監視カメラの位置とかを覚えて隠れたり。

―楽しそうですね。

千房 先生に時々見つかっちゃって、「何やってんだ、お前ら」って。その時のために「忘れ物しちゃったんです」って、わざと忘れ物して帰ったものを教室に取りに行くんです。一応アリバイとか言い訳作ってやって。

―スリルを楽しむだけでなく、そういう考えをどんどんクリエイティヴに遊びを考え出していくのが面白いですね。

中学暗黒時代と転機

―それで小中学校自体は楽しく、高校生活まで続けるみたいな?

千房 中学がめちゃトラブったんですよね。

―それは?

千房 それもすごく変な理由ですけれど。小学生の頃は将来漫画家になりたかったんですよ。

―漫画を描いていたのですか?

千房 漫画は描いていました。ただタナカカツキさんとかの小学生の頃の絵とか見ると、すでにめちゃくちゃうまいじゃないですか。そういうのでは全然なくて、丸と棒で、すごくシンプルなキャラを、ノートにいたずら書きでいっぱい描いていて。描いている内容は、大体友達と遊ぶ内容なんですけれど。いつも遊んでいる友達のメンバーがいて、例えば怪獣と戦う回とか、普段できないようなことを漫画にしていて。その時の絵が超シンプルなので、友達との差をつけるのは髪型だけだったんですよね。髪型でしかキャラが描き分けられないくらいシンプルなキャラだったので。そうしたら、中学に入ったら校則で、全員坊主だったんですよ。

―入った中学が?

千房 そこの中学がめちゃくちゃ厳しくて、全員坊主で、詰襟の学ランで。それがもうめちゃくちゃ嫌で、髪の毛カットする=自分のアイデンティティがなくなるってわけなので、結局切らなくて、伸ばし続けて。

―それは大丈夫だったんですか?

千房 それは、すごい大変だったのですけれど。

―戦いみたいになったのですか?

千房 そう、戦いですね。学校の先生とかが、基本的に毎週月曜に髪の長さチェックして、長いと居残りさせられて、来週までに切って来いって、すごい厳しい学校だったので、僕は毎回捕まっていて。

―長さというのはどうみても長かったのですか?

千房 最初の頃は微妙にちょっと長めでごまかしていたんですけれど、途中から段々伸びてきて、そんなに長くはないけれど普通の髪型です。でも大体そういうことに反抗する生徒って不良が多かったので、埼玉の中学だったんですけれど、当時はその地域ヤンキーや、暴走族がすごく多い時代で、大体そういう子は剃り込み入れてたりとか脱色してたり。そういうタイプの子が先生につかまって、殴られるみたいな。校内暴力バリバリで。僕は全くそんな文脈じゃなくて、普通の奴がいきなり髪伸ばしてるという状態で。

―すごい戦いというか、チャレンジですよね。

千房 そうですね。親は全然、お前の好きなようにやれって感じで。普通親が校則守れって言ったら終わりなんですけど、うちの親は別に好きなようにやれって感じだったんですよ。

―お父さんもお母さんも?ご両親ともども?

千房 そうですね。父親はそういう反骨的なバックグラウンドがあったので(笑)。むしろ割とプッシュしてくれていて。で、僕は勉強がめちゃくちゃできたんですよ。だから先生が、すごくやりにくそうで。校則破っているけれど、優等生なんですよ。

―不良グループには属してないけれど、優等生が反抗期みたいな?

千房 「なんで守ってくれないの?」って感じで。朝の朝礼で、皆検挙されていくわけじゃないですか。髪長い奴とか、一人ひとりピックアップして、「お前残れ、お前残れ」って。僕も残らされるんですけれど、他の人たちは「来週までに切ってこいゴン、ゴン」って殴られていて、僕の番になると、「千房は、わかるな?」って、毎週(笑)。

―(笑)。じゃあ結局中学生時代は坊主にはしなかったんですか?

千房 しなかったですね。結構、理論武装して。先生に言われても全部言い返せるって感じで     。親からも、こういう考え方があるって教えてもらったりしたんで。

―すごいですね。でも、そもそもなんで坊主にしなきゃいけない校則なんですか?

千房 埼玉の公立中学は割とそういうのが多かったですけどね。その時代でも坊主はかなり古いタイプだと思うんですけれど。かなり先生からの脅しとかありましたね。呼び出されて髪切った方が進学時にいいみたいな。内申書にも書かないといけないしなぁ、みたいな。

―先生からすり寄ってくるみたいなやりとりですか?

千房 あと修学旅行の時は、「皆が髪切っているしわかるな?」って言われて。僕はそこでキレて、ボイコットしたりとか。

―修学旅行も行かなかった?

千房 行かなかった。

―かっこいい、すごいですね。ここでお父さんの血が。

千房 その時はさすがに先生も「頼むから来てくれ」って(笑)。そこでこちら側にカードが来たと思ったので「いやもう絶対行きません」って断固断り勝利を噛みしめましたね。

―中学時代は千房くん頭いいけれど、反骨精神がある人みたいな扱いですか?

千房 んーどうなんですかね。学校では有名人というか、長髪って呼ばれていて。

―えーすごい。

千房 全然長髪じゃない、普通で言えば短髪の部類に入る長さなのに長髪ですよ。いかに学校が狂っていたかと思いますね。同じ学年の人たちは皆僕のことを知っているのでいいのですが、違う学年の廊下行くと、「長髪、長髪」って後ろ指を指されるみたいな(笑)。

―伝説の人ですね。

千房 いや、でも最悪でしたけどね。中学校時代はそういう感じで、本当しんどかったですけど。

―遊ぶ友達は別にいるわけですよね?

千房 そうですね。部活は科学部で。科学部って言っても、顧問の先生が全く来ないので、理科室でただ遊んでいただけなんですけれど。

―実験はしていたのですか?

千房 実験もせずに理科室を使って遊びまくっていただけですけれど(笑)。机の上を飛び移ったり、暗室に隠れたり。

―小学校の時の天真爛漫さとは変わって、中学はいろいろ戦う感じの人生ですね。

千房 大人の汚いところをすごく見ましたね。

―早い時期に触れたわけですね?

千房 そうですね。ダブルスタンダードなところを見たり。すごく覚えているのは、校則を変えるってことで、生徒会に立候補させられたんですよ。リベラルな先生に焚き付けられて。「お前は出ろ」って。

―先生から言われて?

千房 先生の中でも、僕を応援してくれる科学の先生はリベラルで。社会とか体育の先生は体罰棒持って歩いていたり。その科学の先生に焚き付けられて、生徒会立候補して、僕は全然やりたくなかったんですけど。

―生徒会長をしていたんですか?

千房 やってなかった。結局選挙で落ちたんですけれど。立候補の演説とかさせられた時に、覚えているのが、皆ずらーって並ぶと、僕だけすごい目立つじゃないですか。そこで立候補者への質問コーナーで、「千房くんは校則を守ってないですけれど、皆さんはどう思いますか」って、全員に質問がきたんですよ。

―その質問した人は誰だったんですか?

千房 学校の生徒だったと思います。後で確かアンチの先生が仕込んだと聞きましたが。生徒側から全員の立候補者に、全校生徒の前で。その前に立候補者で集まって話してた時には、皆すごい理解してくれて、「千房くんのそういうスタンスは良いと思うよ」って言ってたのが、その質問されたら「良くないと思う」って皆一斉に言った(笑)。

―ひどい(笑)。

千房 同じクラスの女の子で立候補してた人も、彼女が回答する直前まで小さい声で「全然いいよね」って言っていたのが、台に立った瞬間に「良くないと思う」って(笑)。

―国会中継みたいですよね。

千房 一人だけ野球部の遠い友達がいて、その子だけは、「千房くんは自分の考えがあっていいと思う」って言ったんですよ。その子は翌日先輩に絞められたんですけれど(笑)。

―すごい……。なんだか社会を学ぶ感じですよね。

千房 そうですね。その時はそういう感じでしたけど。僕も出発点は漫画の髪型の描き分けがあったのですが、もう止められなくなっちゃって。髪を切ることはできなくなっちゃって、最後までこれでまあいいかって。

―髪の毛で描き分けて人の個性を描いていたのにってことですよね。

千房 そこが出発点って大した理由じゃないですけど。

―すごい、つながりますね。それはもともと小さいころから曲がったことは良くないっていう、筋を通していこうという傾向があったりしたんですか?

千房 僕はそこまで意固地だったり頑固だったりっていうのはないですけどね。そこまではないですね。筋を通すっていうことに対して大事だと思っているわけでもないですね、そういうタイプでもない。

―髪の毛はちょっと茶色かったら言われますよね、天然でパーマかけてるだろ、とか。

千房 そう、その当時は靴下にワンポイント入っているだけで怒られるみたいな。本当に意味不明で、先生たちも見た目が暴力団みたいだったし。それで中学3年生の時には問題児ばっかり集めたクラスになっちゃったんですよ。

―髪の毛のせいで?

千房 髪の毛は関係あると思いますね。100キロくらいの相撲取りみたいな、パンチパーマにサングラスかけていた先生がいて、その人が担任になって、問題児がそこにいっぱいいて。基本的にはヤンキー系の不良たちと、その中に僕も入れられて、その先生も去年まではパンチパーマかけてなかったのに、問題児クラスの担任になったらパンチパーマかけた(笑)。舐められたら駄目だって感じで。本人も怖かったのでしょうけど。かなり態度も横柄になって。

―そのクラスはどうだったんですか?

千房 先生は高圧的な感じがしたし、周りもヤンキーがいっぱいいて、結構しんどかったですね。

―友達になったりとかはする?

千房 友達になったりはして、でもヤンキーが煙草吸ってる時に見張っとけって言われたりとか(笑)。

―怖い。ダークモードに入る感じですよね。

千房 なるべく関わらないようにしてたけど、怖いから。

―暴力もあったりしたんですか。

千房 暴力まではさすがにないですけどね。さすがにないけれど、見た目が怖い。地獄のような。今思えば彼らも子供なのでかわいいもんですけれど、その当時は自分も子供なので、めちゃくちゃ怖い人ばっかりいるなって。

―でも千房さんは髪の毛を伸ばしているから、仲間だなって感じに思われていたのでは。

千房 そういう感じは多少ありましたね。

―骨のある奴だな、みたいな。

千房 そうですね。でも時々彼らが機嫌悪くなると、何でお前だけ特別視されているんだって感じに急に変わるので、厄介ですね。基本的にはフレンドリーなんですけれど。

―ドラマチックすぎますね。

千房 ムードで態度変わるから、ちょっとややこしい。

―でも勉強は結構できる優等生だったじゃないですか。

千房 勉強ができれば先生は何も言えないっていうのも何となくわかっていたので、ハイスコアを取ることに関しては、ゲームをやるように攻略しましたね。

―理系、文系でいうと?

千房 理系ですね。あとはアインシュタインの相対性理論とかにはまっていたんですよ。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』とかSF小説や宇宙論などの世界がすごく好きで。アインシュタインの相対性理論も、数式はわからないけれど、ぶっ飛んでいて不思議なことが書いてて面白いって感じですごい読んでました。そういうのを読んでいたので、学校の勉強は数学とか全然簡単に見えちゃって。割と点数も高かったんですけれど、威張ってる先生が数学の先生だったんですよ。その先生が担任の時に、毎日連絡ノートを交換するのですが、すごい嫌味を書いていました。勉強が簡単すぎて面白くない、もっと難しいのをやってくださいとか(笑)。意地悪していたんですけどね、先生に。その先生がちょっと威圧的な態度だった人だったので、敢えてアカデミックな方向から嫌味を(笑)。

―先生はちょっと困ったなって感じ?

千房 先生の返答はかなり大人な感じでしたね(笑)。むきになって反論してくるとかではなくて、いや素晴らしい、もっと頑張りましょうって。軽くいなした感じ。

―面白いですね。中学の時にかなり多感に、そういうことに敏感になって。

千房 そうですね。その反動で、高校は、自由な学校に行きたいと思って、吉祥寺にある明星学園に。あそこは制服もないし校則も緩いし、自由の森学園ともつながりがあったりして、かなり自由なところで。

―学校は自分で見つけたんですか?

千房 多分、自分で見つけたか、親がもしかしたら紹介してくれたかもしれないし。そこには全くそういう心配がないので。中学の時しんどすぎたので、完全にもう。

―断ち切るみたいな?

千房 断ち切って、一番チャラいというか、やっと普通の人になれたというか。あんまりこだわらず、楽しく過ごそうと思って。180度変えましたね。

―逆に中学の時代が試されていた感じですよね。ドラマチックで、面白い。高校で部活はしていましたか?

千房 部活はやってないですね。

―スケボーは個人的に始めたのですか?

千房 個人的に高校3年生くらいの時に始めたのかな。それも特に理由もなく何となくひらめきで、町中をスケボーとかで走って移動するようなことをやりたいなと思って、友達に話したら、その時はスケボーブームも過ぎ去っていたので、昔使って余っていたスケボーをくれて。それを持って、原宿に、今ではもう大きくなった「STORMY」や「ムラサキスポーツ」とかに行きました。その当時「STORMY」は雑居ビルの5階の小さい店で、店員のお兄さんに教えてもらったりとか。そういうふうにしてスケボーの世界へつながっていきましたね。

―同時にゲームは深くどんどんやっていったのですか?

千房 中学時代にパソコン買ってもらって。それも結構重要なのですが。父親がこれからはコンピュータだから買っておいた方がいいって、SHARPのX1 turbo IIを買ってくれて。そして『マイコンBASICマガジン』という雑誌を読んで、そこに書いてあるプログラムを入力してゲームをしていました。ゲームをやりたいがためにプログラムをやっていて、でもやっているうちにだんだん改造できることに気が付いて、プログラミング力の基礎になっていきました。

―じゃあここからですね。

千房 そうですね。だからそういう意味ではオタク的な。もともとそういう素質はあるので、オタクっぽい世界にいって、高校になってからはそういうのを断ち切って。コンピュータを使えるってことは誰にも言わないし。

―オタク部分は隠さないとという感じですか?

千房 隠してましたね。パソコンいじったことあるってことは絶対出さないって。

―当時、パソコンできる=オタク時代でしたっけ?

千房 そうですね。パソコンとか高校時代でいじれる人もいなくて。よっぽど親がそういうのをやってるくらいじゃないと。パソコンやってる奴は暗い、みたいな時代でした。

―オタクって言葉が1980年代は出てきたころですよね。

千房 そうですね。自分は隠していましたね(笑)。

―どっちかというと、明るい高校生活のなかで、実際にはパソコンはやってたんですか?

千房 いややってない、完全にやめた。ただゲームセンターはよく行っていましたね。ゲームは好きで。中学の時からゲームセンターに割とちょこちょこ行って、新しいゲームが発表されるのをリアルタイムに、『マイコンBASICマガジン』に、今度こういうのが出るとか紹介されるんで。そのゲームの攻略法が出ていて、ゲームセンター行って遊んだりするのは高校時代も続いていましたね。

―そこら辺は影響あるゲームもありますか?

千房 僕はその当時は、一番印象に残っているのは、ナムコの《源平討魔伝》。あの当時ナムコがすごい好きで。ナムコのゲームは毎回刺さって、色味が好きだったんですよね。

―わかります、ナムコはなんかカラフルでオレンジ色がある。

千房 ちょっとなんか海外のゲームっぽい雰囲気もあったり。コナミはあんまり色使いが好きじゃなかった。

―ナムコはおしゃれっぽい感じで、世界観がありますよね。

千房 そうですよね。ありますね。今はどうなんだろう。ずっと続いているかわからないけれど、《源平討魔伝》はナムコ独特の世界観がありましたね。

―高校時代は、千房さんがパソコンに詳しくて、他の人よりレベル違うなって見え方はされてなかったですか?

千房 ああ、どうなんだろう。やたらゲームうまいとは言われていましたね。初めてのゲームでもすごいうまいって(笑)。友達たちよりもゲームは。初めて新しく出てきた格闘ゲームとかも、僕が一番うまかったみたいな感じはあって。千房やたら最初のゲームうまいなみたいな、陰で練習してるだろ、みたいな。そんな感じとかは言われてた気がします。

―中学は優等生で、高校時代もやはり勉強できる感じでしたか?

千房 いや、全然ダメでしたね。全然しなかった。明星学園って、小学校からずっとつながってる内部生と、高校から入る外部生って構成があって。小学校からいる人たちってすごく勉強できないんですよ。エスカレーターで上がってきてるから。驚くほど勉強できなくて。でも明星学園ってすごい人気高いから、高校入学の偏差値はめちゃめちゃ高いんですよ。だから外部生は皆頭良くて、それが高校でぶつかると、一目見ただけで内部生と外部生がわかるみたいなレベルで判別できるんですよ。それが3年間で、全員平均化されるという(笑)。

―ある意味楽しく自由な場所ですね。

千房 自由で、自分の好きなことだけやっていればいいって感じなので。卒業した人も普通のサラリーマン的な仕事をしている人はほとんどいない。芸能人とかも結構いたりして。僕ももうそこで勉強する理由もなくなって、最終的には勉強は全然やらなかった。だから、内部生から小学生からいた内部生って思われてたり。

―すごく溶け込んだ。

千房 溶け込んだ。

―中学の大変な話を聞いた後だと、良かったなと思いますね。

千房 そうですね。大分リラックスした感じで。

大学生活とエキソニモのはじまり

―それで大学は、東京造形大学のデザイン学科に入学されてますが、それはどういうきっかけだったんですか。

千房 大学もそもそも行く気はなくて、最初は。周りの友達で、そもそも受験する人も少なくて。その中で自分は行くつもりなかったけれど、父親に「大学は行っとけ」と言われて、消去法で、美大かなって選んで。でも美大受験する何人かの友達は、ずっと1年生から放課後に美術室でデッサンの訓練をしていて、僕が高校3年生で「美大受けようと思うんだよね」って言うと、皆に鼻で笑われて。「えっデッサンとかできるの?」って。「いや、今度夏期講習で行こうと思う」と言うと、「ははは」って。「何言ってんの、私たちなんか1年生からずっとやってるのに」って。結果的にはそういう人たちは、学科は全然できないので落ちてましたが。僕は戦略的に実技を採点されない科を探しました。それが造形大のデザイン科とムサビ(武蔵野美術大学)の映像学科で、デッサンじゃなくて絵コンテを描くだけで良かったので。それでも試験の時に体調悪くなったりもあって現役では受からなくて、浪人を選んだのですが、予備校の時に、美大の科は一切取らず、普通科の中級レベルの国語、英語、小論文取ったんですよ。それでつまり普通のレベルの勉強をしてると、美大で言うとトップレベルなんですよ。

―それも自分で計画立てて選んだんですね?

千房 そうですね。とにかく美大受験生は絵はやるけれど学科は全然やらないから、そこで必ず落ちるって。あと実技やらないで小論文でも受けられるって聞いていたので、普通の大学の普通の勉強をして美大の試験受けたら簡単でした。ひっかけ問題が一つもない。美大のテストは全部率直に聞いてくるので、率直に答えればいいだけでした。

―デザイン学科は最初から選ばれたのでしょうか?

千房 デザイン学科はそうですね。どっちかというと映像に興味があったので。マニアックな意味での映画ファンというわけではなかったですが、《2001年宇宙の旅》などのSFがすごい好きで、うちの家庭は映画だけはお金出してくれて、見に行くのも制限がなかったので、池袋とかに中学校の時毎月のように行ってました。その関係で映画は好きだったので、映像かなあって感じで、映像の入っているデザイン科を受けることに決めたんですよ。

―じゃあデザインって言っても、映像系ってことなのですね。強いて言えば映画が一番影響受けたメディア?

千房 そうですね。映画、本。デザイン自体に興味があるかっていうと全くなくて、アートもまあそんなに美大に入ってくる人ほどアート好きでもなかったし。

―赤岩さんにも聞いたのですが、すごく影響を受けたアーティストなどについて言及する場合、具体的にあまり出てこないって仰っていて。話を聞いていて思ったのは、現実の事象が面白いから、特にないのかなと。千房さんはありますか? アインシュタインの相対性理論などすでに影響を受けたお話は聞きましたが。

千房 あとはSFから、音楽。アートではないですけれど、ヒップホップはすごく好きで。高校の2年生の夏休みの間、アメリカのシアトル郊外にホームステイして、基本的に車がないと何処にも行けないから、ずっと家にいることが多くて、MTVとかずっと見ていました。後で知ったのですが「Yo! MTV Raps」っていうヒップホップ専門チャンネルができた当時だったみたいで、ビースティ・ボーイズとかRun-D.M.C.とか出てた気がします。日本に帰ってきて、ラップが聴きたいって友達に言ったら、Run-D.M.C.の古いテープくれて、それでスケボーで原宿に行く時に、ミックステープを路上で売ってるところがあって、時々買って聴いていましたね。

エキソニモに関係する話で言うと、予備校に通っていた時に、新宿のヴァージンメガストアが通り道にあって、視聴コーナーでいつもラップを聴いてました。ちょうどSnoop Doggy Doggとか出てきた時代で。ヒップホップは音がぶつ切りになっているのが面白い。空気感がバスンバスンってキレるのがすごい面白い。「お―すごいな、この切り方」って感じで聴いていて、その時にとんでもない切り方が時々入って。無音になって。なにも心にも感じない。ここでブレイク入れようって狙いすらもないような、スパッと切れる感じがあって、すごいやられて。後で知ったのは、単純にCDプレイヤーの調子が悪かったって話で(笑)。

―勝手に深読みして(笑)。

千房 勝手に飛んでいただけなんです。でもそれは初期のエキソニモのカットアップには影響していると思う。

―ヒップホップが過剰に深読みされて影響を与えてるって。エキソニモがストリートっぽかったり、ヒップホップっぽいのはすごく腑に落ちますね。

千房 たぶん、中学校の時は現実がひどかったので、すごくアメリカに憧れていたんですよ。映画もハリウッド映画とかをすごく見てて、本とかアメリカ人と日本人の違いとか読んでて、岩波新書で買ってきて読んだりとか。結構アメリカの影響は強くて、映画の中でも、アメリカの映画ってコンセプチュアルなひねりとかさりげないところで入ってるじゃないですか。お笑いの中でも、ひねって、考えてクスッと笑わすっていうのがベースに。日本よりかはそういうのがあって、そういう影響は受けていて。ヒップホップのそういうのを深読みして(笑)。

―映画以外で、アメリカの情報ってテレビだと、何ですか?

千房 小林克也の『ベストヒットUSA』。深夜にやってる、あとラジオのFEN、あれくらいかな。アメリカの風が吹いていて。裏原のお店とか、そういうところにちょくちょく行くようになると、そこで流れている日本語ラップとか聴いたこともないようなラップが流れてるとか、そういうのがまだ若くて多感な時期によくわからない世界への接点でした。文脈もわからない、若いから知識も浅いし、すごく不思議なものが現れてきてるぞっていう妄想。全部カットアップですね。ヒップホップになる前は、ハードロック。高校1年の時から上下ジーンズで、長髪のめちゃくちゃハードロックオタクな友達がいて、その人に布教されて。その人はオジー・オズボーンがすごい好きで。高校1年でオジー・オズボーンを信仰するってすごいと思うんですよ。で、オジーはちょっと難しいかなって。でもこういうのあるよって教えてくれて、僕は盲目的に聴いていて。ヴァン・ヘイレンは聴きやすいな、ボン・ジョヴィは聴きやすいなとか、あんまりハードな方は聴かずに聴いて。でもロックは、友達にオススメされて聴いてるだけで、自分で選んで聴いている感じがしなくて。ヒップホップと出会ってからは聴かなくなりました。

―パンクは聴かないんですか。

千房 パンクは全然興味なかったですね。中学の頃は映画のサントラを聴いてました。《バック・トゥ・ザ・フューチャー》や《トップガン》のサントラなどを、かっこいい音楽だなって聴いてて。それがハードロックを一瞬経由したんですけど、馴染めずに、シアトルでMTVで見たヒップホップがグッときた。音楽の影響の方が、ビジュアルの影響よりも強いかもしれないですね。

―高校の頃は将来どういう方向に行くとかは考えなかったですか?

千房 全然考えてなかった。そうですね。アーティストになるとかも全く。

―アーティスト像は、こういうのがアーティストとかもありましたか?

千房 あったのかな。その時自分がどういうふうにアートと接してたかっていうのがあんまりない。好き、嫌いではないですけど。あんまりちゃんと。

―展覧会見たりとかそういうのはしない?

千房 しなかったですね。多分高校時代は全然なかった。

―アートっぽいものっていうものに、これはアートかなって意識して接するっていうのはいつくらいからですか?

千房 そういう意味では、美大に行ったので、いっぱい見る羽目になって。それこそ映像でかわなかのぶひろさんって先生で。

―イメージフォーラムを創られた、映像作家のかわなかさんですね。

千房 かわなかさんは僕の父親に雰囲気が似ていて、勝手にすごい親近感を持っていたのですが、僕は全然言うことを聞かなかったので、クビにされたりしましたけれど。

―授業をクビに(笑)。でもそこで実験映像の洗礼を受けているってことですよね。

千房 それはすごく見させられたりとかして、面白いとは思わなかったですけれど。かわなかさんは僕が大学1年の時、授業でホーム・ムーヴィーとかを見せて、「この子供の表情いいねえ」とか。そういう感じだったので。「これ、普通のホーム・ムーヴィーじゃん」って、全然わからなかった。

大学3年の時もまた授業を取って、もっと実験映像よりの作品を見せてくれて、それはすごく好きで見に行っていました。その授業に行って、かわなかさんが紹介する作品を見ているだけで十分だと思っていたのですけれど、かわなかさんは、「これからグループで映像作品を作るから、グループを作る」と言った時に、「グループとか作りたくないんで」って言ったら、かわなかさんが、「お前のことは好きだけど、お前がいるとやりにくいからやめてくれ」って(笑)。

―で、出なかった?

千房 それでやめましたけど。

―中学生のころを彷彿とさせますね。

千房 でも関係性は全然悪くないですよ。その後も。

―かわなかさんは、そういう千房さんのスタンスは理解してくれたんですね。

千房 そうですね。その時はスケボーをすごくやっていたので、しょっちゅう東京造形のスケボー学科だって言われてましたね(笑)。相当はまってたので、その当時は。大学の授業とかも適当にして、スケボーの大会に出たり、結構本格的にハマっていました。

―大学でも、赤岩さんとはすでに出会っていました?

千房 知っていました。途中から知りあいました。その当時はラップのバンドもやっていて。

―なんてバンドですか?

千房 パトラッシュっていう。それも結構ふざけたやつで、友達二人で始めて、後輩にタイチ・マスターっていうプロミュージシャンになった奴がいて、彼にサンプラーを教えてもらって、サンプラーいじりながら音楽作ったりして、それが楽しくて。音楽作って、曲作ったりしながらスケボーもやって。大学の授業はほどほどににやって。全然優等生じゃなかった。

―すごいアーティストっぽいですね。すでに。

千房 真面目な学生じゃなかったし、まあ反骨的なところもあったし。大学で真面目にアートをやっている人を逆にすごく軽蔑していましたね。軽蔑というのは言い過ぎですけれど、「なんかもっと面白いことあるじゃん」って感じで。「面白いことに気が付けない時点で、センスがない奴らだ」って感じで。

―自分の面白いことには忠実に、やっているって感じですよね。

千房 単純に自分に自信がなくて、何に対しても排斥的なところがあったと思うんですけど。世の中のメインストリームとか大学の授業ちゃんとやってる人を、斜の目で見ていて、というのはありました。お子ちゃまだったんですけど。

―アートの印象も、大学で教わるものが、アートなのか?みたいな。どっちかって言うと優等生的なものに見えたわけですね。

千房 そうですね。新しくルールにとらわれてないもの、ヒップホップとかそういう感じだったと思いますけど。新しいレボリューションが起こってることに本当の価値があって、古い形でやり続けてるものに対しては全く意味がないという。それを今なんでやらないといけないんだって。今はそう思わないけれど、若い頃は結構そういう反骨的ではあったかもしれない。だからといって自分が何かできているわけでもないので、なんでもない、ただの若気の至りですけど。

革新が起きてる現場にすごく憧れるって感じで。特に大学とか、高校とかにかけて、海外のヒップホップとか、あとは原宿、サブカルチャーとかそういう大人たちが訳わからないことをやってるところには、漠然と断片として入ってきていて。実態はわからないけど、妄想ではすごい世界が広がってると思っていて。それで実際大学とか行くと、そんなでもないっていうギャップがあって。そういう意味ではちょっと異常に高望みしている若者。

―でも言葉にならないものを掴みたいっていう気持ちはかなり強く持っている。

千房 そうですね。何かすごいことが発明される瞬間以外、価値がないみたいな。エクストリームな感じがあったと思います。

―エキソニモは大学を出た後で誕生したのですか?

千房 そうですね。

―ネット製作系の会社でバイトを始めて、独学で学びながら、インターネットの製作を始める。

千房 大学卒業して、就職とかもしてなかったので、何のプランもなくて、そこでたまたまバイトして、やえが知り合った人を紹介してくれて、バイトに行き始めて。

―旅して出会ったインターネットの人ですか?

千房 そうですね。その人がインターネットの会社に就職したってことで、突然その仕事をするってことになって。最初話聞いても全然何の話してるのかわからなかったですけど、     アルバイトをやりました。インターネットのウェブページを作ってるんですけれど、ただコピーペーストするだけという作業をひたすらやんなきゃいけなくて、大量にあるページをひたすら、肉体労働で資材運んでいる人、みたいな立場のバイトで。ずっと1か月くらい仕事をして、その時一回もインターネット見なかったという(笑)。

―インターネットって何?みたいな。

千房 説明されても、はーそうなんだって。たぶん会社にページがあって見せられて、で、なにこれ?って全然ピンとこなくて。1か月くらい一回もウェブページ見ていないし、その会社に1台しかインターネットにつながったコンピュータがなくて。それで昼休みに皆ご飯とか食べたりしながら、誰かのホームページ見ていて、覚えてるのが、その時にヨーロッパの個人ホームページ見てたら、女の人の写真が出てきて、じわじわ。普通の人ですけれど、「ハーイ」って。「My name isなんとか~」って書いてあるのを見て、すっごいこんなのを見ていいのか!?って衝撃受けた。

―プライベートなものが現れて。

千房 「My name is何々、私の趣味は……」とか書いてあるのを見て、「え?こんなの見ていいの?」って、アダルトでもない普通の自己紹介ページだったんですけど、なぜか生々しさに赤面してしまった(笑)。それがインターネット初体験。

―作る側から始まって、逆に直接つながっていく。普通の人よりかなり早い時期ですよね。

千房 そうですね。普通の人はまだ始めていなくて、1996年とかもうちょっと前だったかな。そのくらいですね。自宅にインターネット回線を引くのは大分その先ですよね。

エキソニモ誕生

―その頃、《KAO》(1996)を二人で作って、エキソニモを意識していくようになるんですよね。

千房 あんまり何か活動してるという意識はなくて、だから単に面白いのを作ったって感じ。《KAO》も、そのバイトが終わった後に、派遣会社に登録して、それがTYOってCMのプロダクションのウェブ部門に派遣されて、その時に全く仕事が最初なくて。ネットを使ってやる仕事なんか当時なくて。企業がホームページ持つか持たないかって時代なので、そういうのを作る仕事。でもほとんどなくて、ただ半年くらい会社でネットサーフィンしてるだけという(笑)。

―でもそこからアイデアが生まれてきますよね。

千房 その時に一生懸命ウェブの技術を勉強して、いろいろ学んでいました。会社でこんなのがあるよって言われて、センソリウム(注3)を見たりして。そういうのをリサーチしてプログラミングを実験してみたり、勉強して、そこでやり方を学んだのが大きくて、そこで作ったのが《KAO》なんですよね。その当時はBBSとかチャットとか、インターネット掲示板があって、「こんにちは、見ましたよ」って書きこんでいく。そういう風習とか慣習があったのですが、僕は言葉でやるのが苦手だったので、インターネットで、顔の福笑いを作って送信するという、言葉を使わないでコミュニケーションをする方法を考えついたんですよね。

―なるほど。

千房 自分で作った、クリエーションを送信したら、その瞬間に前の人が作った顔と掛け合わされた子供ができて崩される。その時に、作ったものが目の前で破壊されるっていうのが個人的にはグッときてて。

―パンクっぽい。

千房 そうですね、パンク的な。あんまりそれを強く感じるコンテンツではないですけれど、作ってる側としては。

―そこから、赤岩さんと作る、パソコン1台Macをシェアして活動していくことにつながると思うんですけど。一緒に作るっていう共同作業は意識してやっている感じですか?

千房 結構、僕が発案して作ることが多いですが、ああした方がいいこうした方がいいって二人で揉んでいきますね。赤岩はアート・ディレクション的な立ち位置でやってたけど、あんまり役割を決めてやるって感じでも全くなく、オーガニックな感じで面白いものができていて。作品を仕上げるって意識も特になかったので、完成度がめちゃ高いってことも考えてなかったですね。

インターネット自体が、当時かなり貧相なメディアだったので、大きい画像だとすぐエラーで壊れちゃったり、小さい画像とか色数が少ないとか、最低限のところでやらないとサクサク動かないので。《KAO》とかもグラフィックは最低限で、プログラミングで形を作るんですけれど、それも超ミニマムにやっていて。それを出品したら、当時ウェブ上に作られた面白いコンテンツが少なくて、割と注目されて雑誌で取り上げられたりとかしました。NHKのホームページを作る教育番組に取り上げられたり、賞をとったりとか(笑)。

―エキソニモの中で役割分担はそんなにないって話はありましたが、赤岩さんと話した時は、作り上げていくなかで、結構区切るのどうするかということを話されていました。

千房 あれですね、アート・ディレクション的なところじゃないですか。

―赤岩さんの方が?

千房 そうですね。僕は割とコンセプトから考えて、実際に組み上げをやるのが好きで、エキソニモ以外でもいろいろやったりもするので、それでこれエキソニモに良さそうだというのは、シェアして、見せて。一瞬で切り捨てられたりとか、そういうのもあるんですけど。

―エキソニモ以外のお仕事もあるじゃないですか? そことの違いは意識されていますか。

千房 そうですね。このアイデアはエキソニモだなっていうのはありますね。それ以外だともうちょっと役に立つとか、便利みたいなアイデア。エキソニモはそういう感じじゃないので。自分の中ではこういうのはエキソニモ向きのアイデア、これは全然違う、こっちは仕事につながるかもっていうのは切り分けられている。

―千房さんが考えているエキソニモと赤岩さんが考えているエキソニモも違うわけですよね。

千房 そうですよね。違う。

―でもお互いのエキソニモの中で、エキソニモを作り上げていくっていうことになるわけですよね。そこは毎回変わっていくところが面白いなって思いましたけど。新たに作っていっているというか。

千房 そうだな、赤岩の方は割とやるって決まって、やることが決まると、そこに対してのアイデアが出てくるタイプで、お題が与えられたら、それだったらこっちの方がいいあっちの方がいいっていうのをやっていくのが得意なタイプで。僕はむしろお題がない状態で、作る方。こんなアイデアがあって、こんな方向に実現したら面白いんじゃないかっていうのを最初に出すので、それを聞いて赤岩は、だったらこういうの、だったらこういうのって肉付けをしていく。それだったらスマホだけでやったらいいんじゃないかとか、そういう感じで、割とこだわりというか、勘は良い気がしていて。

―職能が違うところが面白いなと思いますね。

千房 そこのバランスでできているのがエキソニモだろうなって気がしますね。

―逆にエキソニモって、二人でインタヴューすると、エキソニモの自意識で答えないといけないとか、そういうので大変ってことはありますか。

千房 あんまり個人的な話はできない。自分の子供の頃とかはできないし、聞く側も聞かない感じじゃないですか。二人一緒だと。

―ご本人たちはアートの歴史をあまり意識することなく、エキソニモとして活動してきていると思いますが、逆に、アートに対して、今考え方とかが変わりましたか?大学時代は、アートに距離感を持ってきたと思いますが。

千房 ヴィジュアル的なアートで言うと、大学卒業してからは、古本屋で画集買ったりとかするのが好きで。よく買ってて。

―どういうものですか?

千房 グラフィックが好きなものを単純に買っていたんですけど、系統だってはいなくて。基本ポップアートですね。ジェームス・ローゼンクイストとか、デイヴィッド・ホックニーとか好きでしたね。ああいうアメリカのポップアートは単純に視覚的に好きで、摂取をしていて。

―やっぱりアメリカにいることは自然な感じがしますね。

千房 変にそうやってつながるんですけど。それこそ中学の時にハリウッド映画が好きで、スケボーはアメリカの西海岸が中心のカルチャーですよね。でも大学行ったら、皆アメリカのこと馬鹿にしていて、ヨーロッパが好きで。自分が昔アメリカが好きだったことは忘れてました。だからそういう意味ではアメリカ好きとは思ってなくて、NYに来たのはたまたま。むしろアメリカは西海岸の方が好きだったので。

―スケボーじゃないけど、サーフィンとか。

千房 サーフィンは全然やってないけれど、高校の時に行ったのがシアトルだったり、基本的に西海岸のアメリカで、NYはイメージがなかった。だからNY選んだのは実はつながらない。不思議ではあるんですけれど。

―メディアアートで、インターネットの仕事をするなかで、赤岩さんはキヤノン・アートラボでバイトするとかありましたけれど、メディアアートが1990年代活発になる時期に、どういう感じで接してたんですか。

千房 僕は、赤岩がナビゲートしている展示に行ったことありますけれど、全然ピンと来なかった。コンピュータのワイヤーフレームとかをいかにもこれが未来のネットワークだって見せることに違和感を感じていて。最先端ってもっと生々しい     いんじゃないのって思っていて。新しいものには全然見えなくて、それこそ高望みしてたのですけど。ぱっと見で想像できる未来に見えたので、興味をそそられなかったです。

―例えばダムタイプとかはどうですか?

千房 全然興味なかったんですよね。あんまり知らなかった。

―《LOVERS-永遠の恋人たち》(ダムタイプ・古橋悌二の作品、1994)のホームページを作っていますね。

千房 そうですね。作っていましたね。《LOVERS》は良かった、好きだったかもしれない。壁に映っている映像の人と、展示会場の床に座ってみている人たちの関係性がすごく良いなと思って。

―でもああいうスタイリッシュな見え方は、興味がなかったということですか?

千房 それは全く興味なかったですね。真ん中にガジェットを積んでるじゃないですか。ああいうのは全く興味なくて、単純に観客と映像の関係性がすごく、未知との遭遇を側から目撃している感じが良いなと感動しました。メディアアートのガジェットっぽい側面は全く興味ないですね。

―それではメディアアートとしてエキソニモが位置付けられるのには違和感があったのですか? 今となっては意識されると思いますが。

千房 そもそも結構そういうものに対するアンチテーゼは強かったので。

―例えば、当時キヤノン・アートラボのキュレーターだった四方幸子さんや阿部一直さんと若い頃からお知り合いだと思うんですけれど、そういう話ってしたことあるんですか? お二人がアートラボでやってるような方向性に対して、議論するみたいなことはなかったですか?

千房 全く関係するとは思ってなかったですね。全然違う世界だと思っていて。自分がその世界、ICC(NTTインターコミュニケーション・センター)とかも、当時はそんなに知らなかったんですけれど、そういう場所があるらしいとか、何かのきっかけで行くことになったりとかした時も自分と関係あるとは感じなかった。

―なるほど、面白いですね。

千房 関わるようになったのは、四方さんから1999年か、2000年くらいの時に、資生堂のCyGnet(注4)で何かやりませんかと言われたのが最初です。それもたぶん僕らが活動し始めたくらい、赤岩やえを知ってるからということもあり。そこで作ったのが《DISCODER》(1999)という作品で。あの作品はサイバーっぽい感じもありますけれど。そこから急にメディアアート的な話が転がり始めて。

―様子が変わっていくっていう。

千房 そうですね、2000年初頭にロッテルダム国際映画祭でいきなりインスタレーションとして出品することになって。《DISCODER》を作った後に、ディレクターがたまたま日本に来ていた時に会う機会があって、そしたらなぜか1、2か月後くらいにじゃあ来てという感じで、慌ててインスタレーションを作りました。インスタレーションがそもそも何なのか全くわからない感じで、プロジェクタも使ったことないレベルで。本当にぶっつけでやって。そこから呼ばれたりすることが増え始めて。四方さんが当時ヨーロッパのコネクションが強かったので、紹介されたりして、2000年以降に向こうの仕事が増えたりしました。《DISCODER》がアルス・エレクトロニカに入選した時に、三上晴子さんに「展示もできるってアピールして乗り込んじゃえ」とアドバイスされて、呼ばれることになったりして、ヨーロッパに行ったら、やっとメディアアートがやってることが理解できた気がしましたね。

―日本だとワイヤーフレームの全部黒い感じで、その中に、ずいぶんポップなことしている、パンクな人たちが現れたって印象はありますよ。

千房 そうだ、思い出した。アルスに最初行った年に、etoyが受賞したんですよ。僕らも《DISCODER》持っていって、変な隅っこで展示してたんですけど、etoyと仲良くなって。Brucknerhaus(ブルックナーハウス)という会場に行くと、etoyがロビーをハイジャックしてて、DJブースがあって、バンバン音楽流れながら、訳わからない映像が流れてて。わーなんだこれって、すごい衝撃があって。そこにはまだ学生で、アーティストも始めてない、BCLの福原志保ちゃんもいましたね。その時にヨーロッパでそういうスタイルのアートに出会ったのが、でかいかもしれないですね。お行儀のいいメディアアートや、日本だと『デジスタ(デジタル・スタジアム)』とか面白CGとかやっていて、クリエーターが作るおもしろCGみたいな、そういうのとすごいクールで研ぎ澄まされたメディアアートとも違う、ガチャガチャしたアクティヴィスト的なやつをヨーロッパで見た時に、面白いなって。そこからは結構影響受けたかもしれないですね。明確な影響というより、潜在的な影響として。

生西康典くんにもロッテルダム国際映画祭で知り合いました。生西くんは当時VJをやっていて、いつの間にか手伝いをするようになって。僕がたまたまプロジェクタを持っていたのもあって。イヴェントの時にそれを使いたいのもあったと思うんですけど、呼ばれて設置して、VJやるみたいなことを結構しばらくやってたんですよ。その時は別に楽しかったので、ギャラとかもなしにやっていたんですけど(笑)。その時に、そこら辺の人たちと遊ぶようになって、生意気とか、スーパーデラックスの界隈の人たちと仲良くなって、夜な夜な遊ぶっていう。

そこら辺が大人の遊び的に楽しかった時代かな。生意気とかの遊び方を見てて、それでいろいろ、日本人と違うダイナミックな遊び方には影響受けたりしてますね。

転機となる作品とエキソニモ活動の広がり

―だんだん、エキソニモの話になってきたので、千房さんにとって、転機になってると思う作品ってなんですか?

千房 転機になってるのは、いくつかポイントはあって、《断末魔ウス》(2007)は、全体で見た時のあるアンカーポイントになっていると思う。あと《DEF-RAG》(2008)って作品と、《ゴットは、存在する。》=《祈》(2009)は、一つの転機。

―《DEF-RAG》は赤岩さんも言ってました。

千房 あとはなんだろうな。《Object B》(2006)もテクニカルにはあるかもしれないけど。

―あ、それは同じことを言っているかも(笑)。

千房 ああいう大きな形でやったのはあるんですけれど、スピリット的な部分ではそこまで大きな影響はないかもしれないですね。というかまだ探究できてない保留な部分がある気もしてます。あとなんだろうな。その先、《Body Paint》(2014)も、予想外の効果が出てヒットした、ウケたっていうのはあるんですけど。あとは一番最近の《Realm》(2020)は楽しみかな。少し今までとは違うものではあるので、楽しみだなって感じですね。

―《The Kiss》(2019)はどうですか?

千房 《The Kiss》は、例えばエキソニモを知ってくれたりとか、そういうきっかけになる作品だったり、コミュニケーション感があったりでいろんなチャンスを作ってくれる作品だとは思うんですけど、ちょっとなんだろうな、想定内。想定外の発見があった     感じではないかな。今までの集大成、まとめって感じ     。「モニュメント」と言っているので、まさにその方向性が正しいのですが。プロジェクトとして手の彫刻をあの大きさでできたのは、一つのアンカーポイントではある。

―《断末魔ウス》とか、それぞれの理由を教えてもらえますか。

千房 それまでは割とガチャガチャいろいろやってきて、そこから先の作品を見た時に、どっちの要素も持ちながら、鮮やかに決まったって感じがしていて。マウスを破壊するってわかりやすいアクション、コンピュータのデジタルとアナログの境界線、メディアのボーダーラインを問うってことがすごく鮮やかに決まってる。そういう意味では完成度が高い作品だなって思っていて。

―どういう過程で生まれたんですか。ひらめきみたいなところでは。

千房 結構昔のアイデアで、覚えているのは、発表する5年前くらいのアイデアをメモしていて、マウスを破壊して、その時の動きを記録して、それを再生するってところまでは構想していました。そのアイデア自体はあったんですけど、それはどうやって実現できるかわからなくて。思い込みで、マウスを破壊した時の動きってすごく繊細な動きというか、細かい動きだから、僕が書くようなプログラムでは計測できないと思っていて、もっと高度なディープなプログラミング言語でやらないと、記録できないと思っていた。そこをどうやって実現すればいいんだろうと、寝かしていた。それで、何かのきっかけの時にJavaでマウスカーソルが動かせるっていうので試しにやってみたら、全然できることがわかって、そこから一気に仕上げていった。

―そこの動きでうまくいかなければ、それ自体は成立しなかったんですよね。

千房 そうですね。実際にそのマウスカーソルを制御するプログラムを知ったりして、これだったらできるかもっていって、一気に実現した感じですね。確か2回に分けて出しているんですよね。1回、せんだいメディアテークで出したヴァージョンとその後YCAM(山口情報芸術センター)と協力して作り直したヴァージョンがあります。

―東京都写真美術館には、DVDがあります。

千房 2番目のヴァージョンですね。バーゼルで個展やったplug.inで、その時にDVD-ROMを作ったんですよね。それに合わせてYCAMで制作させてもらって。《断末魔ウス》はそういう意味では、割とエキソニモコアになるエッセンスがうまくギュッとおさまってる作品だと思いますね。

―《断末魔ウス》は象徴的だなとは思いますね。あと、《DEF-RAG》。

千房 《DEF-RAG》は、《Object B》の後だったと思うんですけど。割とエキソニモの作品って視覚的に強烈なものが多いじゃないですか。そこで、《Object B》は物質としての強烈なヴィジュアルがあって、《DEF-RAG》は、作品のコアになるコンセプトは一応あって、それを実現していく時に外側を肥大化させていく方向性にギアが入ったんですよね。いつもコンセプトを立てた時に、そのまま見せても伝わらなかったらどうしようというか、そういうところが周りを肥大化させていくところにつながっているような気がします。《Object B》でテーマにしたかったのは現実空間とゲームで全然違う空間があって、そこがどういうふうにぶつかり合ったり、存在するかってことがあった時に、ああいうオブジェになっていったところと、《DEF-RAG》も近くて。トーキョーワンダーサイト渋谷で展示があった時に、作品のテーマとしては同じで現実空間とメディア空間の中のギャップみたいなものを見せるのがあったんですけれど、その時にその場で、ガチャガチャ作りながら、いつものスタイルでやっていたら、ワンダーサイトの展示には、現代美術系のアーティストが集まっていて、結構そちらの客層からの評判が良くて。恰好いい!みたいな、そういう感じのことをいろんな人から言われた時に、すごい違和感がありました。

―赤岩さんも同じことを言っていました。

千房 そのポイントを評価されるのは違うなって思ったんですね。でもそこで評価されるくらいやっちゃってるってことって、こっちの単純な押し付けでもあるし、そう思った時に、ちょうど子供が宿っていたこともあったり、徹夜に近い形でやっていく設営スタイルも良くないなって、すごい始末が悪い感じがしたんですよね。

―やりたいことがちょっと違うかなって感じですか?

千房      納まり所が悪い感じになってしまって、自分としては。そこでその後に《ゴットは、存在する。》は、全部外側をなしにして、今まではそういう展示した時もパソコンとか機材は隠したりとか格好よく設えたりしていたんですけれど、もうただ置いてあるみたいな。パソコンを使ってるからパソコンを置いてあるのでいいんじゃないって、それが彫刻ってことでいいんじゃないってくらいで開き直って作りました。それを出したら、ICCでやったんですけれど、全然反応がなくて(笑)。最初は特に。

―そうでしたっけ。でもすごい噂になって、話題を呼びませんでした?

千房 それは僕らのところには伝わっていなくて、最初は結構ハラハラして、こんなことしたら怒られるかもしれないって。やってもいまいち反応もないし、怒られもしないしって感じで、それは全然慣れているっていうか、別に普段からも期待したような反応はなかったりするので全然気にしてなかったけれど。後から聞くと、話題になっていたみたいな話も聞いたので。

―当時、なんか巻き込む感じだなと思いました。結構美術の人も、認知を固めたって感じじゃないですかね。

千房 え、どこら辺で、ですか。

―話題になっているし、私はすごく批評的な作品だと思って。もともとエキソニモの初期のネットアートの作品はパンクだと思っていたので、その要素がすごくある作品だと思いました。私も《DEF-RAG》、なんかアートっぽいなと思った記憶があります。しっかり作りこむんだと。《ゴットは、存在する。》の方がすごくエキソニモっぽいっていうふうに追いかけてみる時に思いました。

千房 そうですね。やってることは同じだと思ってますけど、コアにあるコンセプトとかやりたいこととかは同じだけど、外側は排除して出してみたっていうのが《ゴットは、存在する。》かなあと思っていて。《ゴットは、存在する。》はそれ以降、ちょうどにこちゃんが生まれたのと前後してて、そっから作風が変わったってことでもあるかもしれないですけど。子供が生まれたら変わるのかなって思いつつ、やっぱ変わってんじゃん!って結果的には。その時には思ってないですけど。やってることは同じだし、さらに攻めてるって思ってたので。

―攻めてる、かなり攻めが頂点にきてるなって印象はありましたけど。

千房 かなり捨て身だったと思います(笑)。

―エキソニモどういうことになっていくんだって感じはありましたね。だからあれに熱狂的に入っていく人もいるんじゃないですかね。そういう匂いも感じましたね。

千房 結構その後、なべたん(渡邉朋也)や、谷口くん(谷口暁彦)や、やんツーくんの世代が反応してくれたりしてたのは感じました。    

―谷口さん世代が登場してくるきっかけを作っている気がしますけど。

千房 良い影響だったらいいけど。

―《Body Paint》もすごく驚いた作品でしたが、確か最初に奈良でこういうの作ってますっていうのを送っていただいて、どう受け止めていいかわからないって一瞬思ったりしました。すごい生々しいものを作ることになっているなと思っていて。どういう展開なのかは、その時は、あれもかなり転換期というか。そういうふうに、モノっていうのが、ペインティング、物質的なものにどんどん移行していく感じがしました。

千房 ああいうふうに人間を直接的にヴィジュアルとして使うのは初めてだったと思う。個人的には色のチョイスとかは、いろんな色を作って実験はしたんですけど、色自体にあまり意味を持たせられなかったかなと。アメリカで出した時はやっぱり肌の色の問題があるので、そこは言われて、ハッとしました     。

―《Natural Process》(2004)がすごい洗練、かっこいい感じでとらえられるとしたら、最近のモノを使ってる作品はちょっと違って、ゴリゴリしてるというか。その要素はエキソニモ全体の作品を俯瞰すると、混ざり合っているとは思いますね。

千房 それはちょっとトライしているところもありますね。傍から見てると、そう見れると思うんですけど、やってる側は目の前の壁を掘っているので、それがこっちに開いた、あっちに開いたとかが後でつながってく感じです。だからあんまり自分の作品の中でどこに位置付けるとかは思わないでやってたりするので。あと補足しておくと、それぞれの作品に対して良い悪いを言ってますが、どれも自分の子供みたいに可愛いという感覚があります。出来の悪い子ほど可愛いとかも(笑)今回の個展は家族の集合写真を見ているような感覚もあります。

―その場でベストな適切なことをチャレンジすることは、常に変わらないという印象を受けますね。その指標、軸みたいなものは、千房さんの小さい時の話を聞くと、理解が深まりましたけれど、《Realm》をはじめ、今回の展示全体にかかわることだと思います。

千房 《Realm》に関しては、一つは完全にピュアにネットアートというところに戻ったというのはあります。でもそれは、ここ数年マテリアルの実験があって、それを経過したからいけたポイントのような気もします。

―ピュアと言っても、また初期の頃とも違いますよね。

千房 そうですね。モノとして存在しないっていう意味では、全部コンピュータ上のオブジェクトしかないというのは、久しぶりな気がしていて。ホイットニー美術館でやった作品(《0 to 1 / 1 to 0》2019)も完全にそうなんですけど。個人的に今回のパンデミックで感じたことが、もろにそこににじみ出ている作品になっている、ある意味センチメンタルな。今までそういう部分は出さなかったけれど、こういう状況の中で自然に出ることになったことが、今までと違って面白いなって。それも納得ができる形でできた感じがしていて、自分の感情吐露的な部分がバランスとして悪くないって状況。そこら辺のいくつかの、パンデミックの時に散歩でセメタリーを歩いてたとか、個人的なフィールドワーク的なところが作品に入ってるのも、今まであまりなかった。

―かわなかさんが見たらどう思うんだろ(笑)。

千房 (笑)。そういう今までやったことがない要素が、今までやってた上にすっと溶け込んだような感じがしていて。ちょっと面白いなと思いますね。

―千房さんは、赤岩さんよりもブログをすごく書いていて、文章を書いてるじゃないですか。Twitterもつぶやいてる、自分の考えを表現する、テキスト化するのはどういう位置付けでやられてるのでしょう。

千房 そうですね、文章書くのは好きで。それはなんでかと言うと、祖父が、「けん輔くんは文章が上手い」って言ってくれたんですよ。六輔叔父さんの父なんですけれど、6人子供がいて、12人孫がいるんですよ。12人の中で僕が一番上手かったんじゃないかと(笑)。

―特別言われていたんですね。お爺様が読んだ文章はどんなものだったのですか。

千房 手紙ですね。けん輔は文章が上手いって刷り込まれて、文章書くことが快楽に直結するって回路ができちゃって(笑)。

―今でも書くのが好きってことですね。

千房 書いて、読んで、気持ちよくなります。書いて読んで、書いて読んでのポジティヴフィードバックループ。

―すぐ書けちゃうんですか?

千房 割と早いと思います。書いて、読み直して、また次の日に読み直してっていう感じで楽しんでます。言葉の響きみたいなのが、心地良いポイントがあって、そういうのを自分的に流れる文章を作るのが好きで。自分が書いた文章を「オモシレ〜」って、何度でも楽しめる。幸せな奴です(笑)。

―なるほど。それはじゃあ会期中に最終論を(笑)。だから結構ブログも書かれていて、かなり面白いですよね。定期的にブログを書いたりはしないですか。

千房 やってないですね。今は全然。今までは連載持ってたりしていて、でも雑誌が全部なくなっちゃって、そういう意味では日本語で長い文章書くのはすごい久しぶりって感じですね。

―英語でも書いたりするんですか。

千房 書かないですけれど、作品の説明を翻訳する時とかはできる範囲でやって、ネイティヴにチェックしてもらうくらい。ブログを英語で書いたりとかはしないです。

―でも英語自体で仕事されたりしているじゃないですか。それって、結構問題なくやっている感じですか。

千房 仕事の範囲は大丈夫ですけど。

―英語の生活でずいぶん変わることはありました?

千房 英語の生活が長くなると、日本語が出てこなくなったり、単語が。今僕が使う日本語ってほとんど家庭内で使う日本語しかないんですよ。基本的には家庭内の日本語は論理的に筋道立てて話さないし。

―語彙がそんなにいっぱいないですもんね。

千房 仕事は英語が多いので、日本語の単語が出てこなくて、しかも英語も得意じゃないから、英語の単語も出てこない(笑)。

―なんて表現したらいいんだって。

千房 なんだっけこの感じを表現する言葉は?って、時々迷いますね。言語中枢が弱くなっている。

―最後の方で、大体聞きたいことは聞けたんですけど、赤岩さんにも今回、年表を作っていることもあって、時間感覚的なことを聞いています。実際この年表をみると、普通の年表の感覚ではないなと感じていて。お二人が考えている時間の感覚とか、普通に作品を位置付けるときには歴史的に行うけれど、実際に展示で出てきたものってタグ付けしたり、そういうところで考えてないかもしれないと思うのですが、時間の感覚ってどのように感じていますか。抽象的な質問なんですけれど。

千房 それこそ、もうちょっと話せればよかったなと思っているところで、日本にいた時とこっちにいた時で変わった部分。時間軸と関係あるかもしれないです。NYに来て、やっぱり変わった感じはあるんですけれど、作品とかも少しずつ変わったかなって。それこそ割とストレートになってきている。《The Kiss》とか《I randomly love you / hate you》(2018)とか、ストレートな言葉を使うようになってきたのもあるんですけど。もっと変わったのは、アーティストがこちらにはたくさんいて、そういうのを間近に見ているのも関係していると思うのですが。日本にいた時はすごく消費のスピードが速い。日本ってすべてがファッションのように、半年くらいしたら次は何っていう、傾向が強い。アートもそういう感じがするんですよ。そこで見つけられたものが蓄積して積みあがっていくかっていうと、そうではなくて。忘れ去って次へ。

自分もそういう中で育ってきたので、自分たちがアートをやって、それこそ若い頃に最先端の発火してる部分のみ価値があるみたいなそういう思い込みと関係してるかもしれないけれど、皆が知らなかった新しいことをやったとか、そういうことに価値がある、そういうことを次から次へとやり続けないといけない、というのが染みついていたと思うんですよ。作品作る時も人を驚かすのが重要で、そこで掴んで注目を集めれば勝つという、そこまで単純じゃないですけれど、そういうところがある気がしていて。皆もそういう病にかかっている。外国に出ると、もっとずーっと同じことやっている人とか、全然流行関係ない人とか、もちろん流行ばっかり追っている人もいるけれど、でも見てると、ずっとやってる人に時々スポットが当たる。本当に多様な人たちが、作品も多様なことをやっていて、皆バラバラなことをやっている。そういう時にやっぱり自分は何なんだろうって思いますよね。じゃあ何を軸足にしていくのかってところは、問われている。何かが流行ったからやるってことじゃなくて、自分はここに立っている、こういう人間なのだってことをちゃんと定義していかないと、はっきり定義できるかは置いといて、何かしら自分の中に軸足を持っていないと、やる意味がない。そうでないと、アートはやる意味がないって感じています。逆に言えば、それさえあれば、無理におもてなしする必要もないと思っています。

(2020年6月30日 夜[NY]/ 午前[東京]ヴィデオインタヴュー:聞き手・構成=田坂博子 [東京都写真美術館学芸員] )

1)永六輔によるラジオ番組(TBS)「永六輔その新世界」でのエキソニモと永六輔の対談

2)エポック社が1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機。 ファミリーコンピュータ(ファミコン)が登場するまでの2年間に日本で最も売れた家庭用ゲームハードである。

3)1996年に世界規模で開催されたインターネットワールドエキスポの、日本ゾーン・テーマパビリオンとして、96年1月1日からWWW上で公開を開始。東京に在住する、文化人類学者、グラフィックデザイナー、プログラマー、ネットワークアーティスト、音楽家、ジャーナリスト、大学講師、地球物理学者など、様々な仕事を持つ十数名からなり、プロジェクトごとに数名程度の小さなチームを組んで制作活動を行う。

4)資生堂CyGnet (シグネット=Cyber Gallery Network)。 1998-2003年。資生堂がインターネット上に公開したインターネットギャラリー(www.shiseido.co.jp/cygnet/)