総合開館30周年記念スペシャル
「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」展インタビュー
1970年代から90年代にかけて活躍したイタリアを代表する写真家であり、21世紀に入ってからますますアーティストとしての評価が高まっているルイジ・ギッリ。画家のジョルジョ・モランディのアトリエの撮影や建築家のアルド・ロッシとのコラボレーションを行う一方で、芸術としての写真を追求した彼はどのような人物だったのか。その作品の魅力とは。ルイジ・ギッリのご息女で、ルイジ・ギッリ財団代表でもあるアデーレ・ギッリさんにお話をうかがいました。
2025.6 東京都写真美術館ニュース「eyes」121号掲載
インタビュー:東京都写真美術館 構成:タカザワケンジ

ルイジ・ギッリ 《ザルツブルク、1977》 〈F11、1/125、自然光〉より1977年 ©Heirs of Luigi Ghirri
アデーレさんのお仕事について教えてください。
私の父、ルイジ・ギッリの名を冠した財団で働いています。財団の目的は、父の作品を保存・公開することです。アーカイヴは保存の場であるだけでなく、交流の場として広く扉を開くことで、異なる分野や背景をもった人々に父の作品と資料に関わってもらうことでもあると考えています。ルイジ・ギッリは20世紀に活躍し、30年以上も前にこの世を去ったアーティストです。作品について説明しただけでは、その価値を十分にわかってもらうことは難しいと思いますが、父の作品には今日でも十分に通じる要素やテーマがたくさんあります。私たち遺族や相続人は、彼が遺した偉大な遺産を保存し、未来に伝え続ける責任があります。
ルイジ・ギッリはどのような方でしたか?
父は49歳の若さで亡くなりました。私はまだ幼かったので、父に関する直接的な記憶はほとんどありません。私が父について知ったのは、周囲の人々の話や父の写真を通してでした。私がもっとも興味をもったのは父の旺盛な好奇心です。蔵書やレコード盤を見れば、彼がとてもオープンで好奇心旺盛な人物であったとわかります。とくに蔵書からは、哲学や文学にも造詣が深かったことがうかがえます。アーティストだからというだけでなく、文化的にとても豊かな人でした。私が父の作品から感じるのは、彼が自分自身の内側に閉じこもる芸術家ではなかったということです。父の周囲にいた人たちは、彼が特定のものにだけ関心をもったのではなく、ありとあらゆるものを撮影していたと証言しています。
それは作品からもうかがえます。イタリアの美しい自然風景を撮るだけでなく、足元の水たまりも写真におさめており、父はとても自由なまなざしをもっていました。好奇心の強い人ならではのまなざしです。また、彼の作品からは、皮肉や遊び心、落ち着いた穏やかな視線が読み取れます。それは世界に対する心優しい見方であり、自分の外側にあるもの、被写体に対する深い敬意を意味していると思います。

ルイジ・ギッリ 《レッジョ・エミリア、1985》〈イタリアの風景 – エミリア通りの散策〉より 1985年 ©Heirs of Luigi Ghirri
ルイジ・ギッリの妻であり、アデーレ・ギッリさんにとっては母でもあるパオラ・ボルゴンゾーニさんは、ルイジとどのように協働されたのでしょうか。
母は、父がまだ若い写真家で、写真というメディアを試し始めたばかりの頃に出会い、キャリアの初期からその仕事をサポートしていました。少し強い言い方をすると、母がいなかったら父ルイジの名声は今のようなものではなかったでしょう。
母は父の写真集の編集を手伝ったり、表紙をデザインしたりしていました。写真集づくりは父にとってとても重要な仕事でした。1970年代に二人は仲間とともに「Punto e Virgola(プント・エ・ヴィルゴラ)」という出版社を設立しています。1970年代のイタリアには、写真文化の普及を目的とする専門出版社はほとんどありませんでした。それで二人は自分たちで出版社を立ち上げたのです。Punto e Virgolaから出版された写真集は、今日ではたいへん貴重なものになっています。母は父の仕事を手伝うだけでなく、彫刻作品などを作り、絵を描いていました。彼女自身が芸術的な魂をもっていたのです。今回の展覧会で父の作品だけでなく、母の作品が展示されることを本当に嬉しく思っています。
アデーレさんから見て、ルイジ・ギッリの作品の魅力はどのようなものですか。
私がもっとも興味を惹かれるのは、父の作品が、なぜこんなにも国も文化も違う人々の内面に働きかけることができるのかということです。展覧会会場でよく聞かれる言葉にこんなものがあります。「不思議だ。あの写真に写っているのは子供の頃の私かもしれない。そんなはずはないのに。」彼が写真で表現したイメージを、まるで自分の記憶や思い出のように感じる方がたくさんいるのです。写真は記憶と結びつき、見た人の記憶を呼び起こします。父の作品にはとりわけそうした写真の特性を感じます。もしかすると父の写真は記憶装置のようなものなのかもしれません。つまり、彼の作品は、個人的で親密な記憶と、集団が共有している社会的な記憶との間に存在しているのだと思います。自分の内部と、外部との間にあると言い換えてもいいでしょう。
父は人々を結び付けるものが何かを理解し、それを写真という言語を通して視覚的な世界観を表現することに成功しました。だからこそ、彼の写真がこれほど多くの人々の心を捉えて離さないのでしょう。彼は常に写真を言語のように使ってきました。イメージは言葉のように組み合わせることで、さまざまな意味を生み出すことができるのです。
最後に日本の鑑賞者にメッセージをお願いします。
父はもういないのにこんなことをいうのは少し傲慢なことなのかもしれませんが、きっと日本を愛していたと思います。美しい風景や文物だけではなく、好奇心をそそるものや、皮肉的な要素のあるものがたくさんあるからです。ロラン・バルトはそんな日本を「表徴の帝国」と呼びましたが、父がこの地を探検し、写真に収めることができたらきっと楽しんだに違いないと思います。
今回の展覧会はルイジ・ギッリの人と作品を知っていただく良いきっかけになることでしょう。初めて父の作品に接する方たちにも、彼の作品の中に自分自身の何かを見出してほしいと思います。さらには、この展覧会を通して、彼の作品の多様性と広大さを感じていただければ幸いです。

ルイジ・ギッリ 《グリッツァーナ・モランディ、1989-90》〈ジョルジョ・モランディのアトリエ〉より 1989-90年 東京都写真美術館蔵 ©Heirs of Luigi Ghirri
ルイジ・ギッリ Luigi Ghirri (1943-1992)
イタリアのレッジョ・エミリア県スカンディアーノ生まれ。1970年代より本格的に写真制作に取り組む。色彩、空間、光に対する類まれな美的感覚と、ありふれたものをユーモラスに視覚化する才能によって、主にカラー写真による実験的な写真表現を探求してきた。また制作活動のみならず、写真専門の出版社「Punto e Virgola(プント・エ・ヴィルゴラ)」を仲間たちと立ち上げ、さらにプロジェクト大学で写真理論に関する講義を行うなど、多岐にわたる活動を展開した。
「総合開館30周年記念 ルイジ・ギッリ 終わらない風景」
2025年7月3日(木)~9月28日(日)
東京都写真美術館 2階展示室
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-5073.html
2025.6 東京都写真美術館ニュース「eyes」121号掲載
インタビュー:東京都写真美術館 構成:タカザワケンジ

ルイジ・ギッリ 《ザルツブルク、1977》 〈F11、1/125、自然光〉より1977年 ©Heirs of Luigi Ghirri
アデーレさんのお仕事について教えてください。
私の父、ルイジ・ギッリの名を冠した財団で働いています。財団の目的は、父の作品を保存・公開することです。アーカイヴは保存の場であるだけでなく、交流の場として広く扉を開くことで、異なる分野や背景をもった人々に父の作品と資料に関わってもらうことでもあると考えています。ルイジ・ギッリは20世紀に活躍し、30年以上も前にこの世を去ったアーティストです。作品について説明しただけでは、その価値を十分にわかってもらうことは難しいと思いますが、父の作品には今日でも十分に通じる要素やテーマがたくさんあります。私たち遺族や相続人は、彼が遺した偉大な遺産を保存し、未来に伝え続ける責任があります。
ルイジ・ギッリはどのような方でしたか?
父は49歳の若さで亡くなりました。私はまだ幼かったので、父に関する直接的な記憶はほとんどありません。私が父について知ったのは、周囲の人々の話や父の写真を通してでした。私がもっとも興味をもったのは父の旺盛な好奇心です。蔵書やレコード盤を見れば、彼がとてもオープンで好奇心旺盛な人物であったとわかります。とくに蔵書からは、哲学や文学にも造詣が深かったことがうかがえます。アーティストだからというだけでなく、文化的にとても豊かな人でした。私が父の作品から感じるのは、彼が自分自身の内側に閉じこもる芸術家ではなかったということです。父の周囲にいた人たちは、彼が特定のものにだけ関心をもったのではなく、ありとあらゆるものを撮影していたと証言しています。
それは作品からもうかがえます。イタリアの美しい自然風景を撮るだけでなく、足元の水たまりも写真におさめており、父はとても自由なまなざしをもっていました。好奇心の強い人ならではのまなざしです。また、彼の作品からは、皮肉や遊び心、落ち着いた穏やかな視線が読み取れます。それは世界に対する心優しい見方であり、自分の外側にあるもの、被写体に対する深い敬意を意味していると思います。

ルイジ・ギッリ 《レッジョ・エミリア、1985》〈イタリアの風景 – エミリア通りの散策〉より 1985年 ©Heirs of Luigi Ghirri
ルイジ・ギッリの妻であり、アデーレ・ギッリさんにとっては母でもあるパオラ・ボルゴンゾーニさんは、ルイジとどのように協働されたのでしょうか。
母は、父がまだ若い写真家で、写真というメディアを試し始めたばかりの頃に出会い、キャリアの初期からその仕事をサポートしていました。少し強い言い方をすると、母がいなかったら父ルイジの名声は今のようなものではなかったでしょう。
母は父の写真集の編集を手伝ったり、表紙をデザインしたりしていました。写真集づくりは父にとってとても重要な仕事でした。1970年代に二人は仲間とともに「Punto e Virgola(プント・エ・ヴィルゴラ)」という出版社を設立しています。1970年代のイタリアには、写真文化の普及を目的とする専門出版社はほとんどありませんでした。それで二人は自分たちで出版社を立ち上げたのです。Punto e Virgolaから出版された写真集は、今日ではたいへん貴重なものになっています。母は父の仕事を手伝うだけでなく、彫刻作品などを作り、絵を描いていました。彼女自身が芸術的な魂をもっていたのです。今回の展覧会で父の作品だけでなく、母の作品が展示されることを本当に嬉しく思っています。
アデーレさんから見て、ルイジ・ギッリの作品の魅力はどのようなものですか。
私がもっとも興味を惹かれるのは、父の作品が、なぜこんなにも国も文化も違う人々の内面に働きかけることができるのかということです。展覧会会場でよく聞かれる言葉にこんなものがあります。「不思議だ。あの写真に写っているのは子供の頃の私かもしれない。そんなはずはないのに。」彼が写真で表現したイメージを、まるで自分の記憶や思い出のように感じる方がたくさんいるのです。写真は記憶と結びつき、見た人の記憶を呼び起こします。父の作品にはとりわけそうした写真の特性を感じます。もしかすると父の写真は記憶装置のようなものなのかもしれません。つまり、彼の作品は、個人的で親密な記憶と、集団が共有している社会的な記憶との間に存在しているのだと思います。自分の内部と、外部との間にあると言い換えてもいいでしょう。
父は人々を結び付けるものが何かを理解し、それを写真という言語を通して視覚的な世界観を表現することに成功しました。だからこそ、彼の写真がこれほど多くの人々の心を捉えて離さないのでしょう。彼は常に写真を言語のように使ってきました。イメージは言葉のように組み合わせることで、さまざまな意味を生み出すことができるのです。
最後に日本の鑑賞者にメッセージをお願いします。
父はもういないのにこんなことをいうのは少し傲慢なことなのかもしれませんが、きっと日本を愛していたと思います。美しい風景や文物だけではなく、好奇心をそそるものや、皮肉的な要素のあるものがたくさんあるからです。ロラン・バルトはそんな日本を「表徴の帝国」と呼びましたが、父がこの地を探検し、写真に収めることができたらきっと楽しんだに違いないと思います。
今回の展覧会はルイジ・ギッリの人と作品を知っていただく良いきっかけになることでしょう。初めて父の作品に接する方たちにも、彼の作品の中に自分自身の何かを見出してほしいと思います。さらには、この展覧会を通して、彼の作品の多様性と広大さを感じていただければ幸いです。

ルイジ・ギッリ 《グリッツァーナ・モランディ、1989-90》〈ジョルジョ・モランディのアトリエ〉より 1989-90年 東京都写真美術館蔵 ©Heirs of Luigi Ghirri
ルイジ・ギッリ Luigi Ghirri (1943-1992)
イタリアのレッジョ・エミリア県スカンディアーノ生まれ。1970年代より本格的に写真制作に取り組む。色彩、空間、光に対する類まれな美的感覚と、ありふれたものをユーモラスに視覚化する才能によって、主にカラー写真による実験的な写真表現を探求してきた。また制作活動のみならず、写真専門の出版社「Punto e Virgola(プント・エ・ヴィルゴラ)」を仲間たちと立ち上げ、さらにプロジェクト大学で写真理論に関する講義を行うなど、多岐にわたる活動を展開した。
「総合開館30周年記念 ルイジ・ギッリ 終わらない風景」
2025年7月3日(木)~9月28日(日)
東京都写真美術館 2階展示室
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-5073.html